恋の雨が降るとき 〜クールな外科医は甘く囁く~
廊下を歩きながら、松澤はふと足を止めた。
受付の方から、かすかな笑い声が聞こえたからだ。

「クラ子、松澤先生見すぎ」

その言葉に、わずかに眉が動く。
視線を向けると、幸子がいた。

俯いたまま、書類を揃えている。
何事もないふりをしているが、指先の動きがわずかに乱れているのがわかった。

――ああ、そういうことか。

小さく、息を吐く。
あの二人の会話も、全部聞こえていた。
くだらない。
そう思うと同時に、胸の奥に、微かな苛立ちが灯る。

(ああいう連中は……)

言葉にはしない。する必要もない。

ただ、気づけば足が止まっていた。
視線が、自然と幸子を追っている。

ほんの一瞬、彼女の顔が上がる。

目が合った。

その瞬間――

昨夜の出来事が、ふいに蘇る。

子猫を抱き上げたときの不安そうな瞳。
柔らかく笑った顔。
少しだけ、頼りなさそうに揺れた視線。

それが、一瞬だけ重なって――

松澤は、わずかに眉をひそめた。

(……見すぎだ)

自分に対しての、苦い自嘲だった。

必要以上に気にしている。
それが、はっきりとわかったからだ。

彼女は受付のスタッフだ。

それ以上のことを考えるべきじゃない。

――そう思っているのに。

視線を逸らさなければ、何かを見透かされそうで。

松澤はそのまま踵を返す。
ふと、窓の外へ視線を移すと、街路樹が風で揺れていた。

(俺は……何を考えているんだ)

小さく、心の中で吐き捨てる。

だが、その言葉とは裏腹に、意識の端に残り続ける。

俯いたままの、あの姿が。

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