恋の雨が降るとき 〜クールな外科医は甘く囁く~
幸子は、職場での自分は空気みたいなものだと思っている。
患者にとっては、「受付の人」の一人で、医師や看護師にとってはカルテや書類を回す事務員の一人。
それで十分だし、そのほうが気楽だった。

まして相手は松澤だ。
病院内でも目立つ存在で、女性職員たちが小声で噂しているのを何度も聞いたことがある。

『松澤先生って本当にかっこいいよね』
『でも冷たそう。付き合っても絶対大変だよ』
『ああいう人に一回くらい本気で迫られてみたい』

そんな会話を、幸子はただ聞き流していた。
自分とは無関係な世界の話だと思っていたからだ。

だからこそ、松澤が自分を覚えていたのが信じられずに、幸子は大きく目を見開いた。

「覚えて……いらしたんですか」
 
「何度か対応してもらってる」

「それは、そうですけど……」

「いつもきちんとしてるから、印象に残ってた」

淡々とした口調だった。
たぶん、本人にとっては深い意味などない。ただ事実を述べただけなのだろう。

それでも幸子の胸は、どくん、と強く鳴った。

印象に残っていた。
その言葉が、思いがけず深いところに落ちていく。

地味で、面白みもなくて、同僚の女子たちからは陰で「クラ子」なんてあだ名をつけられている自分が。
誰の記憶にも残らず、どこにいても背景の一部みたいな自分が。
こんな人の目に留まっていたなんて。

「……ありがとうございます」

ようやくそれだけを絞り出すと、松澤はほんの少しだけ目を細めた。
笑ったわけではない。けれど、さっきまでの無機質な印象がわずかに和らいだ気がした。


< 4 / 43 >

この作品をシェア

pagetop