恋の雨が降るとき 〜クールな外科医は甘く囁く~
店を出ると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。
さきほどまでの穏やかな時間が嘘のように、街の音が聞こえて、現実に引き戻されたような感覚がある。

それでも、胸の奥に残っているものは、はっきりとしていた。
幸子はすぐには歩き出せず、ほんの一瞬だけ、その場に立ち尽くす。
自分の中にある感情を、うまく言葉にできないまま、抱え込んでしまいそうで。

申し訳なさ。
戸惑い。

それから……。
ほんの少しの、あたたかさ。

どれもが混ざり合い、胸の奥にじんわりと広がっていく。

そのとき、少し先を歩いていた松澤が、ふと足を止めた。

「どうした」

振り返る視線が、静かにこちらへ向けられる。
それだけで、心臓がわずかに跳ねる。

「……あの」

呼び止めておきながら、言葉が続かない。
何をどう伝えればいいのか、わからないまま、指先だけがぎこちなく動く。
けれど、このまま何も言わずに終わらせるのは、違う気がした。

「こんなにしていただいて、本当に……ありがとうございました」

ようやく絞り出した言葉は、どこか堅くて、うまく気持ちを乗せきれていない気がする。
それでも、何も言わないよりはずっといいと思った。

松澤はしばらく何も言わず、ただ幸子を見ていた。
その視線に、わずかに落ち着かない気持ちになる。
やがて、ほんのわずかに息を吐くようにして、言った。

「だから、気にするな」

低く、変わらない声。
けれど、先ほどよりも少しだけ柔らかく聞こえた。

「俺は、猫のお父さんなんだろ」

またしても、冗談なんだか、本気なんだか、つかみきれない言い方に、幸子は目を瞬かせた。
それでも、その言葉の奥にあるものを、幸子はなんとなく感じ取ってしまう。

松澤の少し不器用で……それでいて深い優しさが伝わり、心がじんわりとあたたかい。

「……はい」

それ以上は何も言えず、笑みを返した。

松澤はそれを確認すると、何事もなかったかのように歩き出した。
幸子も、少し遅れてその隣に並ぶ。
先ほどまでよりも、ほんの少しだけ距離が近い。
その変化に気づいた瞬間、胸の奥がまた小さく揺れた。


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