恋の雨が降るとき 〜クールな外科医は甘く囁く~
やがて手術の時間が近づく。
看護師が準備に入り、淡々とした説明が進められていく中で、現実がゆっくりと動き出していくのを、幸子はただ見ていることしかできない。

祖母がストレッチャーに移され、それが動き出した瞬間、心臓が強く打った。
ここで見送れば、あとは待つことしかできない。

「いって来るわね」

祖母が穏やかに言い、その言葉に胸が詰まりながらも、幸子はどうにか声を絞り出した。

「……うん。がんばってね」

声が震えていなかったかどうか、自分でもわからない。

ストレッチャーが動き出し、その後ろからついて行くことしかできなかった。
足が上手く動かない。
呼び止めることもできない。
やがて手術室の扉が閉まり、静寂が戻った瞬間、それまで張り詰めていたものが一気に押し寄せてきて、幸子はその場に立ち尽くした。
そのあと、どれほどそこにいたのかもわからないまま、気づけば待合の長椅子に座っていた。

壁の時計の針がゆっくりと進んでいくのを見つめながら、一分という時間がこれほど長いものなのかと、初めて思い知らされる。
手のひらを強く握りしめて、祈り続ける。
それ以外に、自分にできることは何もなかった。

信じている。
けれど、怖い。

その両方が何度も胸の中でぶつかり合いながら、ただ時間だけが過ぎていく。
やがて、どれほど経ったのかもわからなくなった頃、ふと気配が変わった。
ランプが、消えている。

次の瞬間、手術室の扉が静かに開いた。
反射的に立ち上がる。
手術着姿の松澤が、こちらへ歩いてくる。
その足取りは落ち着いていて、変わらない。
胸の奥にあった緊張が一瞬だけ緩む。

「……倉田」

低く落ちる声。
その意味を、すぐには飲み込めなかった。
けれど続いた言葉が、すべてを繋げる。

「問題なく予定通り終わった」

その一言で、張り詰めていたものが一気にほどけた。

力が抜ける。
膝が崩れそうになるのを、なんとかこらえる。

「……よかった。ありがとうございます」

ようやく、それだけが口からこぼれる。
視界が滲み、止めようとしても涙が溢れてくる。
松澤は何も言わず、その様子を静かに見ていたが、やがてほんのわずかに距離を詰め、触れることはせずに、ただ低く言った。

「よく待ってたな」

その一言が、胸の奥に深く落ちる。
何もできなかった時間。

それでも、その場にいたことを認めてもらえた気がして、幸子は顔を覆いながら小さく頷いた。
涙は止まらなかったが、それはもう、不安からではなかった。

張り詰めていたすべてがほどけたあとに残ったのは、確かな安堵だった。
< 99 / 223 >

この作品をシェア

pagetop