思い出せない恋人より、忘れられない人がいる ――記憶喪失の秘書は冷徹社長に溺愛される
「心配しなくていい。徐々に思い出していけばいいんだ」

穏やかな声だった。

押しつけるでもなく、ただ隣にいるような言い方。

「恐れ入ります」

そう答えながら、私は視線を落とす。

けれど胸の奥は、静かに満たされていた。

不安のはずなのに。どうしてか、この人のそばにいると――

大丈夫だと、思えてしまう。

復帰してから数日が経った。

仕事は、まだ完璧とは言えない。

けれど、不思議と大きな混乱はなかった。

体が覚えているのか、手は自然に動く。

資料のまとめ方も、電話の取り次ぎも、思い出せなくてもなんとか形になる。

ただ――細かなミスは、どうしても出てしまう。

「……あ」

書類を見直していて、思わず声が漏れた。

ホチキスの位置が違う。

慌ててやり直そうとした、その時。

「ここは左側に二か所ホチキス止めだよ」

すぐそばから、穏やかな声がした。
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