思い出せない恋人より、忘れられない人がいる ――記憶喪失の秘書は冷徹社長に溺愛される
すると隣から、静かに声がした。

「そのやり方で合っている」

振り向くと、すぐそばに社長が立っていた。

近い。

思わず一歩引きそうになる距離で、私の手元を見ている。

「ありがとうございます」

そう言うと、彼はほんの少しだけ口元を緩めた。

その表情を見て、胸の奥がふわりと温かくなる。

どうしてだろう。

褒められただけなのに、それ以上の何かを感じる。

「珈琲、淹れますね」

言った瞬間、不思議と体が自然に動いた。

給湯室の場所も、道順も、迷わずに進める。

手が覚えている。

それが、少しだけ嬉しかった。

淹れた珈琲を差し出すと、社長はそれを受け取り、一口飲む。

そして、静かに言った。

「……君の味だ」

「……はい」

その言葉に、なぜか胸が締めつけられる。

私の知らない私を、この人は知っている。

その事実が、くっきりと浮かび上がる。
< 9 / 89 >

この作品をシェア

pagetop