思い出せない恋人より、忘れられない人がいる ――記憶喪失の秘書は冷徹社長に溺愛される
その日は、気づけばすっかり遅い時間になっていた。

オフィスにはもうほとんど人がいない。

静まり返った空間に、キーボードを打つ音だけが小さく響いていた。

「……終わりました」

書類をまとめて顔を上げると、社長はデスクに向かったまま、静かに頷いた。

「確認する」

そう言って立ち上がり、私の隣に来る。

自然な動きだった。

けれど、その距離の近さに、ほんの少しだけ意識が向く。

「……ここ、修正しておこう」

指先で示される箇所を、私は頷きながら見つめた。

真剣な横顔。

仕事の時は、無駄な表情が一切ない。

それなのに――

ふとした瞬間に見せる優しさが、どうしても気になってしまう。

「……ありがとう、ございます」

小さく言うと、社長は一瞬だけこちらを見た。

その視線が、妙に近く感じる。
< 13 / 89 >

この作品をシェア

pagetop