思い出せない恋人より、忘れられない人がいる ――記憶喪失の秘書は冷徹社長に溺愛される
それを覚えていないなんて。

その時間を、何も知らないなんて。

ひどく――もったいない気がした。

大切なものを、丸ごと失ってしまったような。

そんな、空虚さ。ふと、社長の手元に視線が落ちる。

握られたままのペン。

力が入りすぎているのか、わずかに震えていた。

その理由を、私はまだ知らない。

知らないはずなのに。どうしてか、分かってしまう。

この人は、きっと――何かを、隠している。

そしてそれは、私に関係することだ。

「……失礼します」

これ以上そこにいられなくて、私は頭を下げた。

ドアへ向かいながら、胸の奥を押さえる。

苦しいのは、思い出せないからだけじゃない。

本当のことを、知らされていないからだ。

それでも。――知りたい。

そう思ってしまう自分が、いた。
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