沈黙の音楽室

旋律の空白

 放課後。五年生の結衣は誰もいない音楽室の隅で、ひとり譜面を見つめていた。来週は合唱コンクールの選抜試験がある。けれど結衣はどうしても「歌う」という行為が理解できなかった。
 結衣が口を開くと、周囲の空気がわずかに震える。しかし、そこから溢れるのは音ではなかった。
「また、音を消しているわね、結衣さん」
 背後から声をかけたのは、音楽担当の佐藤先生だった。
「歌うのが怖いんです。私が声を出すと、みんなの音が死んでしまうから」
 結衣は俯いた。彼女にとって「歌」とは、世界から色を奪う作業に等しかった。彼女が主旋律をなぞろうとすると、ピアノの伴奏も、隣で歌う友人の声も、まるで真空に吸い込まれるように消失してしまうのだ。
「それはあなたが『下手』だからじゃないわ。あなたの声が、あまりに純粋な『静寂』だからよ」
 佐藤先生は鍵盤に指を置いた。ポーン、と透き通ったドの音が響く。結衣がそれに合わせて喉を震わせると、瞬時にその音はかき消え、音楽室は完全な無音に包まれた。耳鳴りがするほどの深い深い沈黙。
「結衣さん。この学校の音楽室には、昔から不思議な言い伝えがあるの。百の音を集めるよりも、一の『完全な空白』を捧げた時、本当の音楽が完成するって」
 先生の言葉を、結衣は半分も理解できなかった。ただ、自分が周囲と違うことへの恐怖だけが胸を支配していた。
「私は、みんなと一緒に歌いたいだけなんです。普通に、音を出したい」
「いいえ。あなたは選ばれたの。今日、この場所で、学校中の『雑音』を食べてしまいなさい」
 先生の目が、不自然なほど細められた。結衣は違和感を覚えた。窓の外を見ると、校庭で遊ぶ下級生の声、風に揺れる木の葉の音、遠くを走る車のエンジン音。それら全てが音楽室の結衣に向かって収束していくのが見えた。
 結衣は堪らず口を開き、精一杯の声で叫んだ。
 その瞬間、世界からすべての音が消えた。鳥のさえずりも、風の音も。
 音楽室の鏡に、自分の姿が映った。そこには、口のない真っ白な少女が立っていた。
「ご苦労様。新しい『音楽室の壁』さん」
 佐藤先生だと思っていたモノが、結衣の譜面を閉じた。結衣の体は次第に硬くなり、壁の木目に溶けていく。
 彼女が歌えなかったのではない。彼女自身が、音を吸い込むための「建材」として、学校に作り替えられていたのだ。
 翌日。音楽室には、かつてないほど響きの良い美しい合唱の声が満ち溢れていた。
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