完璧な上司に飼われてます! 〜ズボラ女子の居候日記〜【長編版】
「あ……そうだ」

 車内で二人きりになり、緊張感が増す。
 運転席に座る橋場さんの表情や仕草がやけに気になっていた、その時……肝心なことを思い出した。

「どうした?」

「いえ……私、マスクの下、メイクしてないことに気がついて」

「……それは俺も気づかなかったな。試食でマスクを外すことになるだろうから、今やっておけ。できるか?」

「いいんですか?」

「俺も、事前にスケジュールをきちんと伝えておくべきだった。すまん」

 ハンドルを握ったまま、橋場さんが小さく謝る。
 てっきり怒られると思っていたから、拍子抜けしてしまった。

 確かに、急にチームを組むことになったし、きちんとした引き継ぎもなかった。
 それに、そこまで把握しようとしなかった私にも非はある。
 住む場所がなくなってバタバタしていたせいで、仕事への意識が甘くなっていた……反省しないと。

「行儀悪いですけど……お許しください」

 揺れる車内で、急いでメイクを施す。
 メイク中の姿を見られるのは正直気が引けるけど、この状況では仕方ない。
 橋場さんは気を遣ってくれているのか、こちらを見ることは一切なかった。

 私の場合、フルメイクでも本気を出せば十五分ほどで終わる。
 手早く終わらせ「オッケーです」と声をかけると、橋場さんが思わずといった様子で、「はやっ」といつもより砕けた声を漏らした。
 その反応が妙に可笑しくて、笑ってしまう。

「石田の準備も整ったところで、もうすぐ到着だ。準備はいいな?」

「はい、大丈夫です」

 店の近くのパーキングに車を停め、私は自分のバッグとカメラセットを抱えて店へ向かった。
 信号待ちの間に、橋場さんの手がカメラセットに伸びる。
 さりげなく、やや重たいその荷物を受け取ってくれて……大人な男性の優しさを感じた。

「あ、ありがとうございます!」

「独り立ちしたら、こういうのも全部一人で運ばないといけないんだからな」

「は、はい……今から筋トレしておきます」

「根性で何とかなるだろ。そこまで重くない」

 ラーメン班だった頃は、カメラなどの機材はいつも江本さんが持ってくれていた。
 それは、私の甘えだったんだ……。

「ここだ。今日の取材先は」

 駐車場から歩いて三分ほど。
 目の前に現れたのは、レンガ調の外装が印象的な洋食屋だった。
 新しさの中に、どこか懐かしい雰囲気が漂っている。

 立て看板には、『洋食サワイ』の文字。

「うわぁ……いい匂い……」

「仕事モードに切り替えろよ。じゃあ、入るぞ」

 先頭に立って、橋場さんが扉を開ける。
 少し重みのあるドアが開いた瞬間、カランコロン、とベルの音が響いた。
 店内に入ると、奥からすぐに優しそうなおじさんが顔を出す。

「はいはい、いらっしゃいませ」

「本日はお世話になります。月精社の橋場と申します」

 ――よし、次は私だ。
 ポケットに入れておいたはずの名刺入れを……。

 ……あれ?

「何してるんだ……」

「いや、名刺入れが……」

 橋場さんが店主のおじさんに向かって軽く頭を下げる。
 その行動が、余計にプレッシャーに感じた。

「申し訳ありません。こちら新人でして……」

 するとおじさんは、にこやかに笑ってくれた。

「大丈夫だよ。お名前だけ教えてもらえれば」

 あ……名刺入れ、完全に家に置いてきた……。
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