完璧な上司に飼われてます! 〜ズボラ女子の居候日記〜【長編版】
「名刺がなくて申し訳ありません……石田花音と申します」

 そう名乗ると、おじさんは困った様子も見せず、むしろ愛嬌のある笑顔を向けてくれた。

「石田さんね。覚えたよ」

 私の失敗など気にもしていない様子で、そのままフレンドリーに話を続けてくれる。

「あれ、雑誌の名前……“いくぐるめ”だっけ?」

「は、はい!」

 思わず声を張って返事をすると、おじさんは満足そうに頷き、店の奥へと歩いていった。
 そして四人掛けのテーブルの前で立ち止まり、手振りで「どうぞ」と促す。
 席に着く前、橋場さんは改めておじさんに向き直り、仕事用のきりっとした表情を浮かべた。

「本日は、開店前のお時間をいただきありがとうございます。まず、本日の流れを簡単にご説明してもよろしいでしょうか」

「あ、その前に……お母さん、コーヒー三つ!」

 おじさんが厨房に向かって声を飛ばす。
 奥から返ってきたのは、「はいよー」という奥様の柔らかくて優しい声。
 そのやり取りだけで、このお店が長く愛されてきた理由が伝わってくる。

「それで、橋場さん。今日はどんな感じなの?」

「あ、はい。本日は“都内の愛され一品”という企画で、オムハヤシを掲載させていただければと考えています」

「愛され一品かぁ……そりゃあウチのオムハヤシは、昔から常連さんに愛されてるね」

 そのタイミングで、奥様がアイスコーヒーを運んできてくれる。

「あなた、謙遜しなさいよ」

 そう言って笑う奥様に、おじさんも照れたように頭を掻いた。
 このご夫婦、取材相手として以前に、人としてすでに好きになってしまいそうだった。

「それでは、早速……」

 橋場さんはスティック型のボイスレコーダーをテーブルに置き、落ち着いた声で取材を始めた。
 私はノートパソコンを開き、橋場さんは手元のメモ帳にペンを走らせる。

「まずは、このお店をオープンされた経緯を教えていただけますか?」

「……この店はねぇ。今から二十年前、夫婦で始めたんだよ」

 そこから語られたのは、店ができるまでの道のりや、シェフとしての料理遍歴。
 橋場さんは相槌を打ちながら、必要な情報を一つずつ淡々と引き出していく。

 正直なところ……ここまでは江本さんの取材と大きな違いは感じられなかった。
 むしろ、愛想の良さや場の和ませ方だけなら、江本さんの方が上手だった気もする。
 これなら、私の方がもっと話を広げられるんじゃない?
 そんな考えが、心の奥でこっそり芽を出してしまう。

「ご夫婦で協力し合って、地域に愛されるお店を作られてきたんですね。とても素敵です」

「いやいや、誠実にやってきただけだよ。なあ、母さん?」

 厨房にいる奥様も、作業の手を止めずに笑いながら答える。

「そうねぇ」

 その一言に、店内がふっと和らぐ。
 私も含め、自然と笑い声が広がった。

「ありがとうございます。それでは次に、オムハヤシをいただいてもよろしいでしょうか」

「わかった、じゃあ今から作るよ」

 そう言って、おじさんは軽やかな足取りで厨房へ向かっていった。
 それを見届けた橋場さんがさっと立ち上がり、私の肩を軽く小突く。

「ほら、カメラ準備。厨房で作っているところを、ワンカット撮らせてもらうぞ」

「あ、はい! すぐに……!」
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