完璧な上司に飼われてます! 〜ズボラ女子の居候日記〜【長編版】
「もういいです」

 残り少しの鮭の身を雑にほぐし、ご飯と一緒にかき込む。
 正直、味なんてほとんどわからなかった。
 ただ今は、この空間から一刻も早く離れたい……その気持ちだけが強くなっていて、態度にも滲み出てしまっていた。

「まだ話は終わってないぞ」

「これ以上話しても、喧嘩になるだけですし。時間もないので」

 食べ終えた皿と茶碗をシンクへ運び、そのまま何も言わずに部屋へ戻る。
 一人になった瞬間、何をやっているんだろうという虚無感に襲われた。
 これじゃまるで、飼い主の手を噛む犬みたいだ。

「でも、橋場さんも橋場さんよ。あんなに突っかかってこなくてもいいのに……」

 モヤモヤを抱えたまま、外出の準備を始める。
 洗面台を使っていると、鏡越しに橋場さんがトイレへ向かう姿が見えた。
 何か言いたげな、こちらを気にしているような表情……けれど結局、橋場さんは何も声をかけてこなかった。

 変な空気にしてしまって……またすぐに罪悪感が込み上がる。

「……早く出よ」

 この空気を共有し続けるのは、さすがにしんどい。
 橋場さんにいつも注意されている通り、床に水滴が飛んでいないか確認してから部屋へ戻る。
 あとは外出用の服に着替えるだけ。化粧も問題ないし、髪のセットも上手くいっている。

 時計を見ると、まだ一時を少し過ぎたところだった。待ち合わせの四時までは、かなり時間がある。
 それでも、今はこの家に居づらかった。
 リビングでパソコンをしている橋場さんに「今日はご飯いりません」とだけ言い残し、玄関へ向かった。
 橋場さんはちょっとだけ寂しそうな表情を浮かべながら「わかった」と短く返してくれた。

「……あーあ、やっちゃった」

 電車に乗り、待ち合わせ場所である目黒まで向かう。電車の中で、つい独り言を口にしてしまった。
 あんな喧嘩、するつもりなかったのに……。
 橋場さんへの歯痒い気持ちが、強い口調として出てしまった。
 橋場さんも橋場さんで、何だか余裕がなかったし……まさかこんな衝突が生まれるなんて……。

 何はともあれ、約束の時間まで暇を潰さないといけない。
 適当に見つけた喫茶店へ入り、コーヒーを飲みながら今朝のやり取りを何度も思い返した。
 これから久しぶりに光市と会うというのに、頭の中に浮かぶのは橋場さんのことばかりだった。
 今朝の言い合いは……間違いなく不要なものだった。

 今は心から、そう思える。

「とにかく、切り替えないと」

 そうだ。これから、光市とちゃんと話をするんだから……橋場さんとのことは、一旦頭の隅に追いやらないといけない。
 今のままじゃ、光市と向き合うことなんてできないだろうから。
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