ひとつの秩序
加瀬との旅行が楽しかったのは、まるで仕事が忙しくなる区切りかのようだった。
あの後から、平日しばらく加瀬とは会えていなかった。
キャンドルの案件が、ようやく形になり始めた頃だった。
納品日から逆算した工程表。制作会社との打ち合わせ、資材の手配、クライアント確認。
その間には、夏目へじっくり時間を取って伝えたいこともあるというのに、莉子のスケジュールはすでにほとんど埋まっている。
マウスのカーソルが、工程表の上で意味もなく彷徨う。
モニターから放たれる無機質な光が、充血し始めた莉子の瞳をチリチリと焼いている気がする。
「南さん、ここの動線ってどうします?」
それなのに、新しい展示企画の案件も入ってきていた。
今まで扱ったことのないジャンルだったこともあり、まずは勉強しなくては、そう思っていると、夏目が机の向こうから顔を上げる。
ちょっと待ってね、と莉子は言いながら資料を見つめた。
頭の中には、まだ決まっていない要素がいくつも浮かんでいる。
香りのゾーンの位置、来場者の流れ、展示の順番、どれもまだ確定していない。
それでも、誰かが決めないと前に進まない。
「…うーん、一回、入口側を少し広く取ろうか」
自分でも完全に確信があるわけではない案を、言葉にした自覚はある。
その証拠に、脳内にイメージを描けていない。
「じゃあ、写真ブースは奥に回した方がいいですか?」
「うん、そうだね。多分そっちの方が自然かも」
夏目にそう返事をしながら、莉子はモニターの図面を見つめなおした。
頷いた夏目は、またモニターに向かって作業をしていた。
ああ、今日は髪の毛に少し寝癖がついてるな。そんなところに思考がいってしまう自分は、明らかに集中できていない。
多分。
最近、その言葉を使う回数が増えている気がした。
コンペの時はそんなことはなかった。
あの時は、片倉がいて、静がいて、方向を決めるのは二人で、自分はその指示をどう形にするかを考えればよかった。でも今はいない。一人で考えなければいけない。
「…南」
「はい!」
「新しい方の案件、結構詰まってるみたいだけど…」
隣の席の片倉が、莉子だけに聞こえる声量で言った。
口元にはいつものように少しだけ笑みを浮かべていて、まるで莉子の今の頭の中を分かってるみたいだなと思った。
「…まあ、ちょっと」
「手、足りてる?大丈夫?」
莉子が曖昧に笑って返した言葉に、片倉はちらりと莉子のモニターを見つめて言った。その一言に、莉子は一瞬だけ言葉に詰まる。
足りているかと聞かれたら、多分足りていない。
考えることも、決めることも、想像していたよりずっと多くて、クライアントとの調整も、制作会社との確認も、同時に進んでいく。
それに加えて、夏目に振る仕事を決めるのも、自分だ。
夏目に任せすぎてもいけない、でも全部抱え込んでも回らない。
何を与えたら夏目は成長できるのか、何が得意なのか、そしてその進捗も管理する。
頭の中で、いくつもの判断を同時に動かさなければいけなくて、それがこんなにも大変なことだなんて思わなかった。
「…だ、大丈夫です」
「……そう?無理する前に言うんだよ」
気づけば、そう答えていた莉子の言葉に、片倉は少しだけ眉を上げたが、それ以上何も言わなかった。
片倉の椅子がぎしりと鳴り、その言葉の重みが、湿り気を帯びて肩にのしかかる。
いつもの、落ち着いた、それでいてすべてを透かして見るような眼差し。
「はい…」
莉子の返事を聞いて、そのまま自分の仕事に戻る片倉に伝わらないように、少し息を吐いた。
無理してない、とは言えないけれど、これは自分がやらなきゃいけないし、片倉も自分にそうしてきたはずだ。
自分のことでいっぱいいっぱいだった新入社員の頃。
その頃の絶対的だった存在の片倉のことを思い出そうとしても記憶になくて、昨日、過去の片倉のスケジュールを思わず開いた。
今の莉子よりもスケジュールは埋まっていて、それでも当時の莉子には、余裕そうにこなしているように見えていた。
「南さん」
「っ、何?」
夏目の声で、意識が戻り、莉子が再び夏目のモニターを覗きに行くと、夏目が新しい図面を表示していた。
「高さ、これで大丈夫ですか?人の視線ライン的に」
まだ頭の中が整理しきれていない中、流れ作業のように莉子は画面を覗き込む。
数字を確認する、距離を想像する、来場者の動きを頭の中でなぞる。
「…もう少し低い方がいいかも」
「どのくらい下げます?」
即座に返ってくる質問の速さに、胸の奥がざわりとする。
隣にある夏目の視線を感じるも、それを今はすぐに見返せない。
「…五センチくらい」
「分かりました、修正します」
言葉にすると、夏目はすぐに頷き、キーボードを打つ音が、隣で小さく響く。
跳ねたままの数本の髪が、キーボードを叩く振動に合わせて、暢気に揺れている。
その横顔を見ながら、莉子は再び席に戻った。
「全然、次からチャットで送ってくれてもいいからね」
「あっすみません、南さんを毎回呼んでしまって…僕が行くべきですよね!」
「ううん、大丈夫」
チャットで送ってくれたら、少し寝かせてから返すこともできるから。
そんな本心が、自分の中で立ち上がって蠢いている。
ああ、最悪だ。こんなことを考えているなんて。
気分転換に、シェアスペースへコーヒーを淹れに行った。
何気なくポケットにあったスマホを取り出すと、加瀬からのメッセージが入っていた。
【今日も遅くなりそう?】
毎日連絡を取りあって、時間があれば会っていた。
平日であって、週に最低でも一回は会えていたのに、今週はこの調子では会えなさそうだ。
それに金曜から加瀬の出張が入っていて、今週の土日は会えないことが分かっていたからこそ、どこかで時間を作りたかったのに。
【遅くなりそう】
冷えたスマートフォンの画面を叩く指先の感覚が、どこか他人事のように冷たい。
泣いている絵文字をつけて送り返して、スマホをまた仕舞った。
加瀬も出張が今後増えてくるのかもしれない。新しい仕事が増えたからといって、自分だけが辛いわけではない。
莉子はコーヒーをごくごくと流し込み、気持ちを切り替えてデスクに戻った。
加瀬との旅行に思いを馳せる時間は、今週はなさそうだった。