ひとつの秩序
朝日が眩しくて目が覚めるなんていう爽やかな始まりなんかじゃなくて、晩酌をする前にセットしておいた、スマホの目覚ましがうるさく鳴って、莉子は目を開けた。
「…ん、かせ…あさぶろ…」
「んー」
手を伸ばしてスマホを止めると、それを追いかけてきた加瀬の逞しい腕が、莉子を再び布団へと引き戻した。
「早くおきて…お風呂はいろっていったの、だれ…」
「…りこだろ」
「かせでしょ…」
「とうま」
「あ…とうま…」
「さむい」
もぞもぞと布団の中に戻っていくと、加瀬の両腕が莉子をきつく抱きしめて引き寄せた。無音の部屋はエアコンがいつの間にか切れていたのか、少しだけ室内はひんやりしていた。
先ほどちらりとスマホの画面が映し出していたのは、六時半の数字。
朝食は八時半までに行けばいいので、まだまだ余裕はある。
「おふろ、はいんないの」
「んー…いっしょに入る?」
「また?」
「またってなんだよ、何回入ったっていいだろ」
布団の中でお互いが動くたびに、パリッとした旅館の糊のきいたシーツが、衣擦れの音を立てる。
空気に触れていただけの布団が身体に当たると、そこだけ冷たく、体温で温められていたところだけを求めていくと、自然と身体が密着していく。
「…ふ、浴衣、はだけちゃった」
「え?どこ」
「みないでよぅ、いきなり俊敏すぎる…」
薄い浴衣だけをお互いに纏って、細い濃紺の帯が解けて布団からはみ出ている。
二つ合わせていたはずの枕は、一つは加瀬の頭に、一つは莉子の身体の後ろに追いやられていた。
「朝だけど、していい?」
「昨日したじゃん…」
「何回したっていいだろ」
「これだからスポーツマンは…」
目覚ましでは起きなかったくせに、話しているうちにだんだん頭が目覚めてきたらしい加瀬の口調が、少しずつはっきりしてくる。莉子はというと、まだ眠気の方が勝っていて、加瀬の首筋の温かさを求めて顔を擦り寄せたところだった。
「旅行、楽しかった?」
「うん…たのしかった、また行こ」
「今度はどこ行きたい?」
「うーん…ランド」
「え?」
「とうま…カチューシャしてくれる?」
「…いいけど、笑うなよ」
「ふふ、いいんだ」
予想外の答えに莉子が笑うと、加瀬は抱きしめていた腕を動かして、莉子の頭を撫でた。大きな手のひらが、髪の毛を押さえつけるようにして優しく滑っていく。
その感触が気持ちよくて、莉子は再び目を閉じた。
「ランドなんか日帰りで行けるじゃん」
「たしかに…じゃあどこ行きたいの」
「…別府」
「ふふ…また温泉…とうま、おじいちゃんみたい」
「誰がおじいちゃんだコラ」
「あっ、ちょっと、ごめんって」
加瀬の手のひらがするりと浴衣の中に入ってきて、莉子の意識が覚醒する。
少し離れようにも、加瀬の手のひらが頭の後ろをがっしりと掴んでいて離れられない。
「莉子、かわいい」
「と、ま、ちょっと」
「旅行、たくさん行きたい」
「うん、わかった、いこ、だからちょっと、」
加瀬の手のひらがするりと自分の身体を這っていくたび、昨夜の熱を再び思い出す。
元々はだけていたらしい浴衣は、とっくに袖を通しているだけになっていて、いつの間にかシーツの上に追いやられた濃紺の帯が、無造作に丸まっている。
莉子が寝ぼけながら返事をしている間に、着々と進められていたらしい準備に今更ながら気づく。
「風呂よりもこっちがいいかも」
「透真、っ」
「かわいい、好き、俺ばっかり好きでごめん」
そんなことないよと言いたくても、止まない刺激が言わせてくれなかった。
寝ていたところから急に反対側に意識を引っ張り戻され、昨夜の熱のまま布団で寝ていたはずだったのに、朝から差し込む光がそれを上書きしていく。
朝ごはんギリギリまで寝てようと言った加瀬に、朝風呂を提案したのはそういえば自分だったと今更思い出す。
二人とも朝は強くないのに、莉子がした提案に、即座にいいよと言った加瀬は、自分といて我慢していないのだろうか。
ずっと好きだったと、騙していたと言っていた加瀬の顔が、ぼんやりと脳裏に浮かんだ。
莉子をどこまでも優先する加瀬の気持ちの裏には、そんな罪悪感があって、今でもそれは拭えていないような気がする。
まるで、またいつか、離れていくと思っているかのようだ。
その日が来るのを、心のどこかで恐れている気がして。
「透真、好き、」
「うん、俺も」
私も、なんで透真を好きになったのか、その明確な理由が欲しい。
いなくなるのが嫌だった、透真が離れていくと思ったからなんて、消極的なものなんかじゃなくて。
だんだんと頭がぼんやりして、次第に何も考えられなくなっていった。
ひんやりしていたはずの部屋は、寒さを感じなくなっていって、それは朝日が部屋に満ちていたせいなのか、それとも二人の吐息だったのか、分からなかった。
「これだからスポーツマンは」
「ごめんって」
「今日は透真じゃなくて加瀬って呼ぶ」
「あっ、ほんとごめん」
帰りの新幹線を降りて、東京に戻ってきていた。
莉子の最寄駅からガラガラとキャリーケースを引いて歩く加瀬は、莉子の言葉に急に真摯な謝罪を述べる。
その現金さに莉子は眉を顰めて、ちらりと加瀬を振り返った。
「…夜は加瀬がごはん作ってくれる?」
「いいよ」
「じゃあ許す」
朝食の時間はギリギリとなり、少し汗ばんだ肌を流す余裕もなくチェックアウトをしたので、莉子は根に持っていた。
車もなく、商店街は昨日満喫してしまったので、今日はチェックアウトをしてそのままそれぞれ帰宅する予定だった。
朝が遅かったので昼は軽めに駅で済ませ、送ると言った加瀬の言葉に甘えて、莉子の家に向かっている最中だった。
「夜までいていいの?」
「…バイバイするには早いかなって」
「じゃあそのまま泊まっていい?」
「……」
「明日早起きして自分家寄って、着替えて仕事行く」
「…しない?」
「していいならするかも」
「どんな体力!」
スニーカーが地面を擦る音と、加瀬が引くキャリーケースの音がする。
そういえば、ずっと荷物持ってくれていたな。
「体力っていうか、莉子がかわいいから」
「もうっ、そういうことばっか言って」
「ほんとだしなー」
見慣れた道を進むと、すぐにアパートが見えてきた。
そのまま解散しようなんて話をしていたのに、無意識に夜まで一緒にいる想像をしてしまっていたのは、日常に加瀬がいることが当たり前になってきているからなのに。
「…するの、別に嫌っていうわけじゃないよ」
「え?」
「恥ずかしいのと、持たないなっていうだけ」
「…身体が?」
「…それもあるけど、気持ちも」
俺ばかり好きでごめんと、もう言わせたくはない。
付き合う前、加瀬が、辛いことを全部俺に移していいと、莉子が風邪を引いた時に言った。
加瀬の気持ちを受け止めたいと思って、莉子が思わず手を伸ばした、あの時。
「気持ち?」
「いっぱいいっぱいになっちゃうの」
「なにで?」
あの時には、きっともう好きだった。
「なんか、透真が、好きだなっていう感じの気持ち」
「…かわいい、俺も好き」
今日の夜は、何のご飯をリクエストしようか。
きっと何を頼んでも、いいよと言って作ってくれる。
玄関の鍵を開けながら、莉子は思いを馳せた。