ひとつの秩序
  
 
  
  
 


数日後、パソコンの上部に表示されている時計は二十時を過ぎていた。

土日は加瀬の出張で会えなくて、久しぶりに家でずっとダラダラと時間だけが経過していった気がする。

そう言えば、付き合ってからこれまでは毎週末会っていた。
きっと加瀬が予定を合わせてくれていたのもあったが、平日も合わせると週に三回ほどは必ず会えていたので、こんなに会えなかったのは付き合ってからは初めてかもしれない。

加瀬が莉子にアプローチしてきてからも、週に一回は会っていたので、思ったより、加瀬が日常に侵食していたんだなと、思い知らされた。

フロアにはまだ明かりがついているが、人の数は昼よりずっと少ない。
夏目は莉子から割り振られた仕事をきちんと終え、定時に退社していた。

はぁ、と漏れる息は、切り替えのためではなく集中していないからだ。
片倉はどうしていただろうか。片倉ならなんて言っただろうか。

いつまでも片倉の指示を仰いでいてはいけないし、これは莉子に任せられた案件だ。
それなのに、長年一緒に仕事をしてきた片倉のことをたくさん思い出して、その思考をどうにか辿って、どうにかヒントを得ようと縋り付いている自分がいる。

「うー…」

恋愛的な意味ではないが、ここ一週間は加瀬よりも片倉に思いを馳せる時間が長かった気がする。遅くまで仕事をして、帰宅しても片倉ならあそこはどうしていたか?などと、ふとした瞬間に浮かんでくる。

それにも、加瀬に対して罪悪感がある。
先日自分のお酒の失態で顔を合わせる機会を作ってしまったこともあり、余計にだ。

「わ、何してんの」
「せ、んぱい…」
「見えなかったから、もう帰ったかと思ってたよ」

デスクに顔をつけて突っ伏していた莉子の隣に、片倉がコーヒーを片手にやってきた。シェアスペースの上部に見える会議室の電気はいつの間にか消えていて、どうやら片倉はそこで作業をしていたらしい。

「先輩はなんでまだ残ってたんですか…」
「んー?ちょっと詰めたいことがあってねー」

片倉は自分のデスクにタンブラーを置き、パソコンの電源はつけずに莉子に問いかけた。

「で?何を悩んでんの?」
「悩んでるって分かりますか…」
「ふ、そんな顔でそんな体勢してて、逆に悩んでないとかないでしょ」

上司に見せる体勢と顔ではないことは分かっていたが、片倉相手だと仕事の弱みは全て見せてきたことと、周囲に誰もいないことも相まって、莉子は眉を下げながら返事をする。

「私どんな顔してますかぁ…」
「んー?不安でたまらないって顔」

片倉がデスクの引き出しを開けて、莉子に個包装のクッキーを渡した。
莉子は身体を起こして、それを受け取る。

「あげる、お客さんからの貰い物だけど」
「わぁ、パケ可愛いー」
「ふ、そんな顔しててもそこに目がいくの、南らしい」

食べな、と言われて莉子は袋を開けて、中のお菓子を口にした。
ポップな水色の背景に、英語とピンクの花がデザインされた袋からは、ナッツの散りばめられたクッキーサンドが一つ入っていた。

「おいしい…」
「今日はもう帰りな、そんなメンタルで仕事は進みません」
「でもぉ…」
「俺もそうだったから、南が入ってきた時」
「え?」


少しだけ低く、独り言のように漏れた片倉の声が、夜の静かなオフィスに吸い込まれていく。


サク、と軽い音を立てて崩れるクッキーの層。キャラメリゼされたアーモンドの香ばしさと、少しビターなチョコの熱が、冷え切っていた莉子の思考の隙間にじわりと染み込んでいく。

「マネジメントって難しいよね。どこを任せて、どれくらい口出して、聞かれた質問に答えて、果たして俺のこの答えは合ってるのか?っていう」
「…先輩はエスパーなんですか…」

莉子の言葉に、片倉は眉を下げて笑った。
あ、なんかこの感じ、久しぶりな気がする。
片倉のことを純粋に好きだった時、雑談しながら二人で案件を進めて、莉子の言葉に片倉が仕方がなさそうに、堪えきれないように笑って、その空間がとても楽しくて、好きだった。

「この仕事って正解ないし、数字で分かるもんでもないしね」
「はい…」
「ましてやデザインセンスに関しては、元々南は俺より優れてるなって思ってたし、どうですか?って聞かれるたびにヒヤヒヤしたなー」
「先輩は、ずっとなんでも余裕だと思ってました…」

片倉は椅子を左右にクルクルと動かしながら、莉子の言葉に微かに笑みをこぼす。
どうしたの?大丈夫?何に悩んでるの?と聞かれていたら、きっと、こんな言葉は言えていなかった。

「それはまぁ、新人の女の子に、頼りないなって思われたくないからね、俺も頑張ったよ」
「知らなかった…」
「最終は俺がちゃんと確認するんだし。だから俺の名前入ってるでしょ?資料も目通してるんだから、分かんないことあったら聞けばいいのに」
「だって…」


まるで自分が、駄々を捏ねている子どもみたいだ。
だって、でも、そんな枕詞がつく言い訳なんて、したくないのに。

すごいね、南。
この人に、そう言って欲しかった。
だから、多分、今までも頑張って来れていた。


「ん?言ってみな、明日には忘れておくから」
「いつまでも先輩を頼ってたら、先輩みたいになれない…」

片倉は、ふ、と息を漏らすように笑った。
そうだ、そういえば、片倉の、穏やかに笑う姿が好きだった。

「逆に、俺みたいにできてたら、困るよ」
「え?」
「何年、差があると思ってんの。マネジメント初めてなんだから、最初からできるわけないでしょ。だから俺の名前が入ってるって言ってるのに」
「うー…」


今までなら、きっと頭を撫でられていた。
片倉の手は、膝に置かれたままで、その事実と可能性に気づいてしまう自分が、なんとなく嫌だ。

この人との関係を選ばなかったのは、紛れもなく自分なのに。


「…今までならこのあと飲みにでも行く?って言ってたけど、彼氏くんに怒られそうだから、また連絡して迎えにきてもらったら」
「…そういえば先輩、あの時なに言ったんですか…」
「何も?どっちかっていうと、俺が嫌味言われたと思うよ?」
「え?」

加瀬に聞いてもはぐらかされていたが、片倉も教える気はないらしい。
想像してもしきれないその場面に、莉子は再びあの日の失態を思い出す。

「で、具体的には何を悩んでんの?今は夏目もいないんだし、サクッと言ってみて」
「…一筆書き動線にすると迷わないけど、滞在時間は短くなるなぁ、回遊性取った方がいいのかなぁって」
「なるほど、南はどう思ってんの?」
「回遊にすると迷う人出るから、流れは固定で…滞在はポイントで調整しようかなぁって…」
「うん、良くない?ダメなの?」
「すぐ終わるのって、体験として薄くないかなとか…」

片倉はぎしりと椅子から立ち上がって、莉子のモニターを後ろから覗き込んだ。
夏目よりも距離は遠いのに、久しぶりの片倉との近さに少しだけ身体が怯んだ。

ふわりと莉子の背中を包むように漂ってきたのは、加瀬の柔軟剤の匂いではない。
ずっとそばで、かつてはそれに焦がれていた、片倉特有の知的な匂い。

「んー…長くいることと、満足することって別だからね」
「そっか…」
「ほら。南の考え、ちゃんと俺と一緒だったでしょ」
「まだ迷ってるところあるんですよ」
「まだあるの?もう全部言いなよ」

片倉が笑って、莉子のデスクに椅子ごと近づいた。

先輩としてだから、仕事のことを聞いているだけだから、今だけは甘えても許される?

片倉の告白を断ってから、必要以上に近づきすぎるのを避けていた。
それが片倉と加瀬への誠意だと思っていたけれど、実際仕事の話もしづらくて、必要最低限になってしまっていた。

そういえば、今までも、こういう雑談の流れの中で、一緒に考えるように答えを導いてきてくれていた。片倉も、最初から全ての答えを持っていたわけではなかった。

私も、夏目くんと一緒に話し合いながら、どう思う?って聞きながら、進めてもいいのかもしれない。


片倉と話していく中で、少しずつ脳内の思考が解けていくのを感じた。
久しぶりのこの感触が嬉しく、たくさん相談に乗ってもらいたくて、しばらく片倉と夜のオフィスで二人きりだった。
それが、素直に、とても楽しかった。

 
 
 
 
 
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