ひとつの秩序
 
 
 
 
「プレゼン、上手くいって良かったじゃん」
「南さんのおかげです」
「いやいや、私は全然」

片倉、夏目と打ち合わせを終えて、外に出たときには、空がうっすら赤らんでいた。
季節は六月になっていて、じめじめとした湿度が、ビルを出た途端に肌にまとわりつく。

ガラス張りのビルに反射する街の灯りが、昼間よりもくっきりと輪郭を持って浮かび上がっている。

「入口で一回視線止めてから奥に流すやつ、夏目が考えたんでしょ?」
「あ、はい」
「俺もいいなと思ったけど、先方も気に入ってたね」
「正直、私は思いつかなかった」

夏目が少しだけ肩を落としながらも、ほっとしたように息を吐いた。

「ああいう、溜めの作り方は出てこなくて」
「いやいや、南さんがまとめてくれたから形になっただけで…」
「私はやっぱり構造を考える力がまだまだ弱いなぁって。夏目くんの発想すごいよ」

照れたように笑う夏目の横顔を見ながら、莉子は少しだけ視線を落とした。
資料を作る際に、自分が言語化しきれなかった部分を、夏目がふと漏らした言葉たちに助けられた。

「一旦、今日のところはあれで通ったから、あとは図面落として、来週一回通して、だね」
「はい。来週の初稿でゾーニング固めて、施工とも擦り合わせて…夏目くんにも明日ちゃんと説明するね」
「はい!」
「南、あと照明もね」
「あっ、そっか、はい」

会話のテンポは軽いのに、頭の中ではまだいくつもの工程が動き続けている。
今まではここからは、片倉がメインで動いてくれていたところだったが、莉子が全てやり取りをしないといけない。まだまだ気合を入れないといけない。

「じゃあ、僕はこっちの線なので」
「お疲れ」
「お疲れさまー」

交差点に差し掛かると、駅の入り口を見つけて夏目が頭を下げた。
莉子と片倉が乗る線は、まだ少し先にある。

会社から距離がある打ち合わせ先だったので、三人ともが今日は会社に戻らず、帰ることになっていた。久しぶりの直帰で早く帰れるが、加瀬は明日まで出張で会うことはできないし、ゆっくりお風呂に浸かって早く寝ようと思っていた。

背中を向けて去っていく夏目の姿を見送りながら、莉子は小さく息を吐いた。

「ね、なんとかなったでしょ?」
「それは、あの時…先輩が相談に乗ってくれたからですよ…」
「ほとんど俺の意見と一致してたじゃん。俺は南の背中を押しただけ」
「そんなこと…」

二人で並んで駅の方へ歩き出す。
高いオフィスが立ち並ぶ夕方の空気は少し冷えていて、人通りも少なく、昼間のざわめきが嘘みたいに、音が少ない。

「…南、まだ時間ある?」

不意に片倉が、着ていた黒いジャケットを脱ぎながら言った。

「はい」
「一駅くらい、移動できる?ちょっと歩くけど」
「はい、大丈夫です」
「見せたいものあるんだよねー」

片倉の言葉は軽い調子で、莉子は一瞬だけ首を傾げて、そのまま頷く。
セットアップのジャケットを腕に持って、ポケットに手を入れながら片倉が歩く。

「…なんですか?」
「んー?多分、南が喜ぶところ」

片倉がたまにスマホのナビを確認しながらサクサクと歩みを進めていき、莉子はそれについていく。口ぶりからして、ご飯やお茶というわけでもなさそうだ。
電車に乗るほどの距離ではないらしく、乗るはずだった駅の入り口を通り越して、そのまま一駅分ほどの距離を歩いた。

駅から遠ざかるにつれて、人通りが少しずつ減っていき、街灯の光が、一定のリズムで足元を照らしている。

「南、さっき自分は構造を考える力が弱いって言ってたでしょ」
「はい…」
「俺はもう、そんなことないと思ってるよ」
「えー?そうですか?」
「思い込みなんだよ。俺がそっち得意だったからさ、聞く癖ついてるでしょ。だから自分は自信がないって思ってるだけで」

片倉にあっさりと言われて、莉子は少しだけ目を見開いた。
そう言われればそんな気がしなくもないが、それでも夏目の案は自分には思いつかなかったもので、それがクライアントに気に入ってもらえたとなれば、自分の力不足を実感してしまう。

「でも…」
「俺、南のパッケージとかLPとかデザインセンス、絶対この子に任せた方がいいなーと思ったから、早々と投げてたけど」
「え、そんなこと思ってくれてたんですか?」
「うん、割と最初から丸投げしてたと思うけどな」
「そうだったかなぁ」

夜の道に、片倉の革靴と莉子のパンプスが静かに、たまに重なって響く。
ベージュのさらりとした生地のワイドパンツからは、足元の黒いパンプスが歩くたびに見え隠れする。

「南は俺を美化しすぎなんだよ」
「えー?先輩は完璧ですよ」
「ふ、違うって。南は何もかも最初から完璧にやらなきゃって思いすぎ。夏目が得意なんだなって思うことがあったら、思い切って一旦任せて、あとで確認すればいいじゃん」
「うーん確かに…」

夏目がいる場面ではしっかりとした敬語が、二人で歩いているときは今までのように少し砕けた口調になっていることに気づく。


「もう大丈夫だよ」
「……」


そのあとに続くのは、俺がいなくても、ということなのだろうか。
握りしめたバッグの持ち手が、莉子の掌にじんわりと汗の熱を伝えていた。

おかしい、この人に認めてもらいたいと思っていたはずなのに。
この人に、そういう信頼を預けて欲しかったはずなのに。

もしもこの続きが、莉子の予想通りなら、


すごく、寂しくて、すごく、嫌だ。



歩いているうちに、見慣れない建物の前で足が止まる。
外観はレンガとガラスでできているようだが、工事中なのか一部分はシートで覆われている。落ち着いている雰囲気で、特別目立つわけではなく、どこか公共の、市役所のような印象を持つ。

「着いた、ちょっと待ってね」

片倉がバッグからカードキーを取り出して、扉の横にかざすと、小さな電子音が鳴って、ロックが外れた。

「え、入れるんですか?」
「うん、ちょうど鍵を預かってるんだー」

扉を開けた瞬間、まとわりついていた湿気がふっと消え、代わりに乾燥した、少し冷たい木の匂いが莉子の鼻腔をくすぐった。
養生シートで覆われている部分も多いが、建物自体はほとんど完成しているようだ。

外の雑踏の音が、厚いガラス扉に遮断されて、耳の奥がキーンとするほどの静寂。
養生シートの奥から漂う、糊やペンキの新しい匂いが、ここがまだ誰にも汚されていないことを表していた。

「ここ、入ってみて」
「はい…」

片倉に促され、莉子が扉を開けた。
そこはシートでは覆われていなかった。

先ほどまでとは違う、完成された空間で、真新しい匂いがした。

少しだけ冷たくて、静かで、音が吸われるような感覚。

「…すごい」

思わず漏れた声は、自分でも驚くくらい小さかった。

ガラス張りの奥には、中庭のようなスペースがあって、木々が青々と生えている。
広い空間には絵が飾られるような柱がいくつか、突如そこに生えてきたかのように、不規則に配置されていて、ぐにゃりと曲がった形をしているベンチもところどころ置かれていた。

「……展示室?」
「そう、明日搬入なの」

片倉はそういうと、特に説明するでもなく歩き出し、その後ろを、莉子も自然と追いかけた。

緩やかにカーブを描いた壁に沿って、白いベンチが連続している。途切れないその形が、空間の中にひとつの流れをつくっていた。

莉子のパンプスが床を叩くコツ、という音が、柔らかなカーブを描く壁に吸収され、反響せずに消えていく。
まるで、自分の吐息さえもこの空間の一部に溶けていくようだ。

視線が、自然と奥へ流れていく。
壁はシンプルで、装飾はほとんどない。
でも、どこを見ても、何もないとは思えなかった。

天井も壁も、すべてがやわらかく湾曲していて、角という角が存在しない。
視線が引っかかる場所がなくて、気づけば奥へと導かれている。

「図書館なんだって。老朽化で、新しく建てたの」
「へぇ…え!?先輩が!?」
「ううん、図書館は社長案件。そこの展示室を任せてもらえて」
「えっ、すごい!」

白い柱には、きっと作品が今後置かれていくんだろう。
空間が先に完成していて、作品はそこに預けられるような気がした。

何にでも、合うように。
何が置かれても、それが主役になるように。

それなのに、今は何も置かれていないのに、空間が主役みたいだ。


「南に、見せたいなーって思って」
「…すごい」

すごい、この人に、追いつける気がしない。
膨大な感情が自分を襲ってくるのに、何一つ言葉にできない。

どうしよう、溢れる何かを堪えることで、今の私は精一杯だ。
 
 
 
 
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