ひとつの秩序
「座っていいよ」
「…はい…」
片倉に促されて、莉子は真新しい、薄いグレーのベンチに腰掛けた。
ふわりと少しの弾力があるクッションは、ここにいつまでもいたいような気にさせてくれる。
「ここまで大きなものを任されたのは、俺も初めてでさ」
「…」
「こないだ、南の相談に乗ってた時にオフィスに残ってたのは、これを詰めてたんだよね」
「……」
何か返事をしなくては、この湧き上がる感情や、素晴らしいと思った感想を伝えたいのに、何も言葉が出てこない。それがすごくもどかしくて、気持ちを焦らせる。
「ふ、考えてる時もさ、南とやった案件の資料とか引っ張り出して、何か参考にならないかなーって」
「…え」
「あー、色々やったなー、これ南が考えたやつだなーとか、すごい思い出して仕事進まなくなった時もあった」
「…あの」
片倉がジャケットをベンチに置いて、両手をついて、天井を見上げている。
一切言語化できていないまま、脳に溢れた感情が、つい口から出る。
「先輩、引き抜きですか?いなくなっちゃう、とか、ないですよね…?」
「え?」
「社長の個人事務所、こっちにいた人たちが引き抜かれていくって…聞いて…」
「ふっ、ないよ、ないない。大きい案件で人が足りてないと、たまに回ってくるんだよ。今回はそれが俺だっただけ」
「でも、声がかかってるとかないんですか?だってこんな大きな展示室…」
「大丈夫だよ、本当にないから」
自分が何を口走っているのか、分からない。
脳みそを通らずに、脊髄反射で言葉がつらつらと漏れていく。
ああ、こんなことを言いたかったわけじゃないのに、一番に出てくるのがこんな変な問いかけだなんて。
「本当、ですか…?」
「…どうしたの。本当だよ」
片倉が莉子の方を見た。
久しぶりに、片倉の目線が真っ直ぐに自分を射抜く。
どくん、と心臓が深いところで、大きく音を立てる。
「さ…さっきも、もう大丈夫って言うから…先輩が、いなくなっちゃうんじゃないかと思って…」
「……いなくなって欲しくないの?」
「はい…」
自分から出た単語に怯えて、思わず目の前の片倉から目を逸らした。
視線の置き場が定まらなくて、その場所を必死に探すかのようにあちこちに視線が移動する。
手にはじんわりと汗をかいていて、展示室に入った時に片倉が入れてくれたクーラーの音が遠くで微かに鳴っている気がした。
「…どうして?」
「ど、どうしてだろう…」
「…南」
片倉が、莉子の頬に一瞬だけ触れた。
すぐに離れていった、少しだけ加瀬よりも細い手の甲には、雫がついていた。
「なんで泣いてるの」
「え…わたし、泣いて…」
ああもう、感情がぐちゃぐちゃだ。
この空間の素晴らしさも感動も、まだ何も言葉にできていないのに。
まるで、初めてデザインに興味を持った時のような、衝撃なのに。
この静謐な空間に、自分の全存在を懸けた、憧れと、渇望が、渦巻いている。
「…そんなに俺がいなくなるのが、いやだったの?」
「……なんで、」
「泣くほど?」
「…ひとりに…」
「ん?」
ずっと、私の前を歩いていて欲しいのに。
「ひとりに、なっちゃうかもって、思って…」
それは、強烈な畏怖と、恐怖と、果たして一体他に何があるのか。
「…先に俺を一人にしたのは、南でしょ」
「え…」
黙って莉子の言葉を聞いていた片倉が、ぽつりと言った。
コンクリートの壁に反射もしないような、小さな声だった。
「必死に距離を保って、近づかないようにしてるのに、いい先輩に戻ろうとしてるのに、俺がいなくなっちゃうかもって思って、泣いてくれるの?」
「せん、ぱ」
「…ずるい子だね」
ああ、だめだ、流されたくなんかないのに、
感情をどう処理していいのか分からなくて、莉子が思わず両手で口元を覆うと、指先には頬に止まっていた涙が触れた。
耳にかけた髪の毛の奥には、片倉が自分を見ているのを感じるが、とても今はそちらを見ることはできない。
「そんなつもりで連れてきたんじゃなかったけど」
「ごめん、なさ、」
「…それは、俺は、まだ期待していいってこと?」
「え、」
「いつか、俺は離れていくよ?」
「えっ…」
片倉は莉子から視線を外さない。
それが分かっているのに、莉子は足元のパンプスを見ることしかできない。
真っ白で汚れのない床に、黒いパンプスがやけに目立つ。
「だってそうでしょ。ただの、仕事の上司なんだから」
「…っそ、う、ですね」
「……付き合ったら、ずっと一緒にいれるけどね」
「っ、あ、の…」
ボリュームのある、薄いブルーのシャツの袖が、ひらひらと揺らめいている。
視界の端には、片倉の黒い靴とこちらを射抜くように見続ける瞳が映っている。
「……彼氏の、どこが好きなの?」
「え…えっと…優しくて、尊重してくれて…私のこと、分かってくれてて…」
「じゃあ、俺は?」
「え…」
「俺のこと、好きでいてくれた時は、どこがいいと思ってくれてたの?」
ぐるぐると激しく脳内を掻き乱すように回っていた感情が少しずつ落ち着いてきて、片倉の言葉がすんなりと飛び込んできた。その言葉も意味もしっかりと考えずに、頭の中に浮かんだ言葉をそのまま口に出す。
「かっこよくて…憧れで…仕事ができて、優しくて…頼り甲斐があって、なんでも相談できて…」
「ふ、俺の方が理由が多いように聞こえるけど」
「…っ」
「それで、今でもそんなにスラスラと思い出せるんだ?」
「せんぱ、」
「俺、諦めなくても良さそう?」
莉子が顔を覆っていた手を、片倉がゆっくりと外した。
この手に触れられるのは久しぶりで、じっとりと湿った自分の手に対して、片倉の手のひらは少しだけ乾燥していて、驚くほど熱かった。
「俺はまだ、南が好きだよ」
片倉の言葉に、一瞬だけ呼吸が止まったかのような感覚に陥る。
まるで、ここに足を踏み入れた時のような。
「…俺じゃ、だめなの?」
ひゅう、と喉の奥に息が吸い込まれていった。
息の吸い方が、よく分からなくなったみたいだ。
考えないように、していたのに。
それが一番、楽だったから。
加瀬の好きになった理由は分からないのに、片倉の好きになった理由は、すらすらと思い浮かぶのはどうしてだろうと思っていた。
先輩が、だめだった理由は、ひとつもない。
そう、静にぽろりと漏らしたランチの日を思い出す。
どうして、私は加瀬を好きだと思ったんだっけ。
「…俺に、しなよ」
どうして、自分は何も言えないんだろう。
どうして、すぐに拒絶の言葉が出てこないんだろう。
逃げ場のない、ガラスと白い壁に囲まれた空間では、自分の重心がどこにあるのかさえ分からない。
うまく自分の中で言語化できていない部分を攻め落とされて、私の中に残っているものは、何もないんじゃないかとさえ思わされる。
片倉に握られたままの手のひらが、熱い。
熱を持っていたのは、私の方だったのかもしれない。
「みなみ、」
片倉の顔が、ゆっくりと近づいた。
どうすることもできなくて、自分の中の感情がぐちゃぐちゃになって、どうしようと思っている間に、片倉の唇がゆっくりと触れた。
真新しい木の匂いが、ふと鼻に残った。
ああ、真っ白なこの空間に、飲み込まれていくみたいだ。