ひとつの秩序
 
 
 
 
唇を離すと、想像通りの莉子の表情が飛び込んできて、片倉は微かに口角を上げる。
莉子の吐息が、真新しい木の匂いを孕んだ空気の中で、かすかに震えている。

「思った通りの顔、するんだね」

その戸惑いを分かったうえで強引に入り込んだ俺は、やっぱりいい先輩ではいられなさそうだ。

「…っあ、の、私、ごめんなさ、」
「…いやじゃなかった?」

掬うように当てた唇を、再度莉子の顔の前まで近づけると、分かりやすく身体を固くした。縮こまるようになったその小さい身体を、前回、腕の中に収めたのは、まだ寒い冬だったね。

新しい施設なだけあって、クーラーの稼働音は、集中しないと聞こえないくらい静かだ。他の音も一切入らない展示室。俺の、今の技術と魂を込めた施設で、後輩に何をしているんだろう。

「だ、だめです」
「いやって、言わないんだ?」
「い、いやですっ」
「もう遅くない?」

じわりと開いた綺麗な花は、遅効性の毒でも撒き散らしていたんだろうか。
こんなにも自分がコントロールできなくなるなんて、そんな感情がこの世にあるなんて思いもしなかった。

「いやです、っ」
「南」
「ほんとに、せんぱいっ」
「南、好きだよ」

俯くようにして、片倉に握られていない方の手で口を覆って、今にも泣き出しそうにしている莉子のまつ毛には、先ほどの涙が少しだけ残っていた。


その手を引いて、再度キスをした。
今度は、拒否する時間も与えなかった。


真っ白な空間に、自分のどろりとした執着と情欲が充満して、咽せ返りそうだ。


「っん、」


この熱は、彼氏が与えた残り香なのか、俺が引きずり出した剥き出しの情動なのか。
彼氏も大事だけど、俺も手放したくないなんて、強欲じゃない?
それだけ、南自身の内側に、俺への渇望があったってことでしょ?


「みなみ、」
「やめっ、んっ」

自分自身の才能に自信がないこと、誰かに導いてほしいと思っている飢えを、俺は、完璧に理解して、自分の欲望に利用している。

「このまま、俺の方においでよ」
「だめで、すっ」

俺の言葉を、まるで誘惑のように、抗えないものと思ってるでしょ?
俺からすれば、男として俺を最大級に揺さぶる誘惑でしかなかったよ。

「でも、キス、拒まなかったね」
「っ」
「一回目は、ゆっくりしてあげたでしょ?」

口から出たのは、自分でも驚くほど甘く、刺のある声だった。
友達だった男を選んだくせに、俺がいなくなるのが怖くて泣くなんて、そんな矛盾した気持ちをぶつけられたら、俺だって期待せざるを得ないよね。

「ねぇ、もう一回していい?」
「だめですっ」
「二回もしたら、三回も四回も同じじゃない?」
「っ、違いますっ」

莉子が片倉に握られたままだった手を勢いよく離して、口元に当てた。
斜め下を見ながら漏らす息は、戸惑いか焦りか、緊張か、少しだけ荒い気がする。

彼氏に言えないことばかりが、増えていくね。
いっぱいいっぱいにさせてごめん。

仕事の方は俺が完璧にフォローしてあげるから、ふとした時に、この感触と熱さを、思い出してほしいなんて本音、到底口にはできないな。

自分の支配欲と狡猾さで、自分自身が黒く飲み込まれていくようだ。
手塩にかけて、たっぷりと水と肥料を与えて育てた花を、俺は自ら汚している。

「でも、言わなきゃわかんないよ、誰もいない」
「そういう問題じゃ、」
「彼氏には、内緒にするの?それとも言うの?」

莉子が立ち上がった。
パンプスの踵が、コツンと音を立ててすぐに消えていった。
その顔は赤くて、視線はあちこちへと移動している。

考えているのだろうか。
俺への対応を?この場の切り抜け方を?自分の気持ちを?
それとも、彼氏への言い訳?


「…もうしないよ、ごめんね」


南の悩みを聞いたあの夜は、久しぶりに何も我慢をせずに、楽しく話せた日だったんだ。前みたいだなって思って、でもそれを俺が先に台無しにしたんだと思ったら、虚しくなって、仕事に没頭するしかなかった。

好きだという気持ちは燻りつつも、そのうち時間が鎮火してくれると思っていた。
まずは先輩後輩として、頼られる、彼女の不安を解消してあげられる存在では、せめて、いたいと思って、悩んでいることがあれば、前みたいに素直に相談してほしいと思って、

「…そんなつもりで、連れてきたんじゃなかったんだけど」

下心がまったくなかったと言ったら、嘘にはなる。
けれど、自分の今の集大成のような作品をただ見て欲しくて、もう少しだけ一緒にいたくて、純粋に、見せたくて、

「…喜ぶかなって、好きな空間かなって思ったからさ」

俺はまたしても、戻りかけた関係を自分の欲でぶち壊したのかもしれない。
悩んだら分かりやすく顔に出る後輩を、もう悩ませたくはなかったけれど、

「ごめんね」
「…なんで、そんな、」

俺のものになってくれるのかもしれない、そう思った一瞬の欲が、俺を、そうさせた。

「普通にするから、安心して」
「……は、い…」
「…付き合ってほしいって気持ちは本当だけど、今は彼氏がいるし」
「…」

これ以上、この真っ白な空間にいたら飲み込まれてしまいそうだと思って、ベンチに置かれていた南のバッグを手に取って、渡した。自分が動いた瞬間に少しだけびくりと肩が動いたことは、見えなかったふりをした。

「心に、留めておいてくれればいいよ」
「……はい…」

行こう、と声をかけて先に歩くと、後ろからパンプスの音がした。
展示室の扉は、行きよりも少し重たかった気がする。
クーラーを消して、戸締りをして、この真っ白い空間に蓋をする。

帰り道は、南は隣を歩かなかった。
軽く視線を送ると、半歩後ろを小さい歩幅で歩いている。
このまま一緒の電車に乗るのはメンタル的に良くなさそうだ、と思い、片倉は駅の入り口で足を止めた。

「俺、コンビニ寄ってから帰るね」
「あ、はい…」
「明日、俺は一日いないから安心して」

莉子の顔はなんとなく見られなかった。
明日、どんな気持ちで再びこの駅に降り立つつもりなのか、自分でもよく分からない。


「もし、」
「え?」

「もし…言えない罪悪感で潰れそうなら、そのまま俺の元においで」
「っ」

そう告げた片倉の声が、夜の湿った空気に溶けて、莉子の耳元で甘く粘りつく。
俺が、南を罪悪感の地獄に突き落とした張本人なのに、まるで聖者のふりをして手を差し伸べる。

彼氏の元に帰れば、罪の意識に苦しむんだから、俺の元で、「罪」を「秘密」と隠蔽して、楽になれると宣っている。まるで、さも、救済かのように。



ねぇ南、今の頭の中、当ててあげようか。

この数年ほとんど一緒にいた俺には、きっと彼氏よりも、南の思考が手に取るようにわかるけれど、せっかく訪れたチャンスを棒に振る気は更々ないから、俺は教えてあげないよ。

俺が咲かせた、美しい花。

最高の温室を用意してあげるから、俺の元においで。



 
 
 
 
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