ひとつの秩序
 
 
 
 

昨日から、上手く息ができない。


 

【東京帰ってきた。今日も遅くなりそう?】

福岡に出張していた加瀬からのメッセージは、昨日から返せていなかった。
昼過ぎに届いたそのメッセージに気づいてはいたものの、既読をつけることさえ、今の莉子には勇気が必要だった。

【ごめん、遅くなりそう】

やっとその短い文を送ることができたのは、夕方だった。
まだまだ明るい日差しが窓から差し込んでいて、それにすら罪悪感を抱く。

今まで、特に予定がなければ土日は一緒に過ごしていた。
きっと加瀬は、先週会えなかった分、明日からの週末の予定は空けてくれている。
先延ばしにしたって、仕方がないのに。

片倉は昨日の宣言通り、一日オフィスにはいなかった。
空席の右隣の席を、これほどまでに意識したことが今まであっただろうか。


加瀬に、なんて言ったらいいのだろう。

そもそも、言うことが正しいのかすら分からない。
言って、どうしようというのか。
でも、隠し通せる気がしないし、今のままでは真っ直ぐ加瀬の目すら見られない。

「南さん…?」
「あっ、ごめん、夏目くん、何?」
「あの、昨日言ってた図面を、見てもらいたくて…」
「分かった、ちょっと今は手が離せなくて、チャットで送ってもらっていい?」
「分かりました」

今の自分では、夏目に何かを伝えられる気がしない。
今すぐやらなければいけないものでもないし、と自分の心に無理やり言い聞かせても、今日同じ理由で後回しにしたものがいくつあっただろうか。

こんな状態で仕事をしても、いいものはできない。
それは分かっているが、他に逃げるものは、仕事しかない。

ああ、どうしよう、泣きそうだ。
そう思って席を立って、トイレに向かった。



トイレの個室で、なんとか涙を流さないように堪えて、気持ちを切り替えようとシェアスペースでスマホを開くと、加瀬からのメッセージが届いていた。

【無理しすぎるなよ】

その優しさが、怖いほど痛い。

私は、加瀬を、裏切ったのに。


返信を打とうと画面に触れても、指先が強張って動かない。とてもメッセージを返せそうになく、莉子は席に戻ってスマホをバッグの奥底に仕舞い込んだ。















「…お疲れ」
「っ」

家に帰りたくなく、次の案件の内容について勉強していると、モニターの奥から片倉が声をかけた。思わず肩がびくりと跳ねたのは、きっと片倉にも伝わっただろう。

「ごめん、もう帰ったかと思ってた」
「…いえ…」

昼間のざわざわとしたオフィスよりも、人が少なくなった後の方が向き合えていた仕事への集中が、ぷつりと切れた。パソコンの右上に表示された時計を見ると、もう八時を少し過ぎていた。

「まだやってたの?急ぎ?」
「い、え…」

片倉は静かに微笑みながら、自席にゆっくりと腰掛けた。
椅子のキャスターのカタリという音さえも、耳に張り付いたように聞こえてくる。

「ごめん、俺がいると集中できないよね」
「…や、そんな、こと…」
「ちょっとだけ作業したら帰るから、ごめんね」

先ほどからごめんと口にする片倉は、いつもと変わらないように見える。
モニターの電源を入れて作業する横顔をぼんやりと見つめていると、視線に気づいた片倉が莉子を見た。

「…帰れない?」
「…いえ…」
「帰りたくない?」
「……いや、」
「…ごめんね」

その言葉には、なんて返すのが正解なんだろう。
片倉だけを一方的に責められれば、もっと楽だったかもしれないのに。

二回目こそ強引だったが、一回目は、拒否する猶予は与えられていた。
キスされると分かって、それでも、動けなかった。
自分の気持ちが、考えてもよく分からない。

「謝らないでください…」

一つだけ確かなのは、片倉が離れていくことが、嫌だったということ。
あの時の私は、それだけでいっぱいだった。

「…そんな顔、されたらね」
「……私、どんな顔してますか…」

今日一日、目の前のモニター画面が、真っ白い光を放っていて、目が眩むように明るい。

「…泣きそうで、どうしたらいいのか分からなくて、しんどいって顔」
「……っ」


せっかく、堪えていたのに。


胸の奥から抑えていたものが込み上げてきて、ぶわりと視界を覆った。
必死に目を開けても、一瞬で飽和量を超えて、涙が頬を伝った。

「っ」
「ごめん」

莉子は周囲に見られないように、足元にあったバッグを覗き込むようにして顔を近づけた。手を乱雑に突っ込み、ハンカチを取り出すと目元に押し当てた。

片倉には会いたくないと思っていたのに、唯一この出来事を知っている片倉に気持ちを言い当てられて、心のどこかでホッとするなんてどうかしている。片倉の、せいなのに。

「…今日一日、その顔で仕事してたの?」
「…」
「……俺は、…」

片倉は何か言いかけて、やめたようだった。
幸いにも涙は止まって、ハンカチをバッグに戻そうとして、奥にあったスマホに手が当たった。途端に返していなかったメッセージに意識が引き戻される。

「…帰りますっ」
「……気をつけて」

これ以上、片倉といることはもっと加瀬を裏切ることになるのではないか。
そう思って、咄嗟に言葉が出た。パソコンの電源を切ることもせず、折りたたんで強制的に終わらせた。

自動的にオフになったモニターが、真っ黒い画面の中で莉子の顔を映し出していた。そこに映り込んだのは、ひどく疲れ切った自分の顔。この顔で一日仕事をしていたのか、と莉子は吐き気を覚える。

視線を無理やり逸らして、バッグにパソコンを仕舞っていると、それを横目で見ていた片倉が、小さな声で莉子の名前を呼んだ。

「南、」
「…はい」
「…もし帰ってからもしんどかったら、…俺になんでも言っていいから」
「…」
「責めてもいいし、怒ってもいいし」

莉子が片倉にそろりと視線をやると、片倉は静かに、穏やかに莉子を見ていた。
それを振り払うように、莉子は乱雑にバッグのファスナーを閉めた。

「みなみ、」
「なん、ですか…」

立ちあがろうとモニターの電源を消すと、片倉が小さな声で再び名前を呼んだ。
莉子が同じような声量で返すと、しばらく黙った後、ぼそりと言った。

「…完璧じゃなくて、ごめんね」
「…っ、お疲れさまでしたっ」

それを返事の代わりに置いて、莉子は早足でオフィスを飛び出した。
夜の湿った空気が肺に流れ込んできた。
早足で歩いても、耳の奥ではまだ片倉の穏やかな声がこびりついたように離れない。

ずるい、そんなふうに謝らないで。
いつものように、にやりと笑って意地悪く何かを言ってきたら、もっと冷たい気持ちになれたのに、もっと責める気持ちも湧いてきたのに。




私を傷つけたことに、そんな悲しそうな顔をするなんて。


完璧。
今まで片倉を定義していた言葉が、莉子の胸に返って深く突き刺さったかのようだった。

昨日から、ずっと加瀬への罪悪感で頭がいっぱいだった。
それでも心のどこかに、あの空間に足を踏み入れた時の高揚感も、忘れられなかった私が、何よりも、誰よりも最低だ。

 
 
 
 
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