ひとつの秩序
さすがにこれ以上、加瀬のメッセージに返事をしないわけにもいかない、と帰りの電車で無理やり返信をした。
さらりと当たり障りのない文字を打ち終わり、送った後に気づく。
私、加瀬に隠そうとしている。
会う時間を引き延ばしているのは、自分の心が落ち着くのを待っているから。
動揺せずに会えるように、何事もなかったかのようにやり過ごせるようになるのを、時間が解決するかのように待っている。
加瀬に会いたくない、けれど、加瀬に会いたい。
今この不安定でぼろぼろな自分を、会ったら傷つけてしまうのに、会って、大丈夫だよと抱きしめてほしい。
なんて醜くて、酷い欲求なんだ。
食欲も湧かなくて、真っ直ぐに家に帰った。
着替える気力も湧かなくて、でも静かな部屋には耐えられなくて、適当にテレビだけをつけた部屋で、ぼうっとソファに座ってそれを見ていた。
画面に映し出されるテロップをただただ眺めていると、ピンポーン、とインターフォンが鳴った。
もしかして、と一瞬で心がざわつく。
見ていなかったスマホを咄嗟に手に取ると、数分前に加瀬から連絡が来ていた。
「はい…」
『俺』
久しぶりに聞く加瀬の声に、こんな時なのに少しだけホッとする。
何も気持ちがまとまらないまま、ドアを開錠した。
部屋のインターフォンが改めて鳴らされるであろうこの数秒間が、とてつもなく長く感じた。
「連絡なかったのにごめん」
ドアを開けると、加瀬が開口一番にそう言った。
一週間以上見ていなかった顔が、莉子に向かって微笑んでいた。
「ううん…私もごめん」
「無理してんじゃないかなと思って」
加瀬は玄関から上がろうとせず、手に持っていた紙袋を莉子に差し出した。
福岡の銘菓のイラストが描かれている紙袋を受け取ると、中にはそのお菓子の箱と、コンビニで買ったプリンが入っていた。
「お土産。これ好きじゃなかった?」
「…っ」
このまま、嘘をつき続けるなんて、できない。
莉子は思わず、顔を覆って玄関にしゃがみ込んだ。
じわりと涙が滲んで、とめどなく溢れて手のひらを濡らした。
「莉子」
「とう、まっ」
加瀬がしゃがんで、莉子の頭に手を乗せた。
「どうした?」
「ごめ、っ、私、もう、っ」
ゆっくりと触れられた手が優しく莉子の腕を引っ張り、立ち上がらせた。そのまま腕を引かれて、リビングのソファの上に座らせられる。
涙が止まらないまま、莉子は足を抱えて座り、顔を伏せた。泣きじゃくる自分の声がこもって耳に流れ込んでくる。
「なにがあった?」
加瀬の声が優しくて、頭にそっと置かれた手が温かくて、涙が止まらなかった。
莉子はしばらく嗚咽を漏らして泣いていて、加瀬は隣に座って、黙って莉子の頭を撫でていた。
「透真、とう、ま、ごめん、ごめんなさい、」
「ん、分かったから」
「違うの、ちが、私、透真に、謝らなきゃいけなくて、っ」
「うん」
しっかり落ち着いて言わないといけない、そう思っているのに溢れる涙が邪魔をする。泣いていい立場じゃない、頭を撫でてもらえる資格などない。
「私、先輩と、っ、キスしたっ」
「…」
怖くて、小さい声でしか言えなかった。
それでもテレビの雑音に紛れることなく、自分の耳にしっかりと入ってきた。
「昨日、先輩が作った、図書館の展示室、見せて、もらってっ、そこで、」
「…無理やり?」
「っ、でも、避けようと、思えば、避けれた…っ」
「……嫌じゃなかった?」
加瀬の声には、微塵の怒りも混じっていなかった。莉子は首を振った。
嫌だとか、嫌じゃないとか、あの時は何も考えられなかった。
「びっくり、して、どうしていいか、分かんなくて、っ」
「…付き合ってって、言われたの?」
「っうん、」
加瀬の声は、穏やかだった。
それがひどく、怖かった。
「…俺と、別れたい?」
「ちがう…っ」
どうして、加瀬が、諦めたように言うの。
ずっと、この日が来るのを、覚悟していたみたいに。
「…先輩に、なんて言ったの?」
「え、な、びっくりして、なにも、言えなかった、」
「…先輩のことが、好き?」
「ちが、ちがうっ、私、私は、透真が、」
透真が好き。その気持ちは、確かにあるのに。
じゃあどうして、あの時の私はそう言えなかったんだろう。
先輩の方が好きな理由をあげられたのは、どうして?
いなくなるかもしれないと思って、涙が出たのはどうして?
俺にしなよと言われて、すぐに首を横に振れなかったのは、どうして?
「……莉子は、なんで俺が好きなの?」
すぐに答えられないのは、どうして?
「と、透真が、いなくなるのが、嫌だと思ったから…」
「…俺があの時、友達に戻ろうって言ったからだろ?」
加瀬はそれを聞いて、静かに莉子に問いかけた。
声を荒げることもなく、まるでいつかこうなると分かっていたみたいに、穏やかに受け入れているようなその声が、莉子の思考を追い詰めていく。
「え、なに、」
「泣き落としみたいだったなって、ずっと思ってた。ずっと友達だった俺がいなくなりそうで、それが嫌だっただけなんじゃないかって」
「ちが、待って、」
背後で、テレビの中のタレントが手を叩いて笑っている。
部屋を満たすその能天気な笑い声が、ひどく耳障りだ。
「だから、咄嗟に好きって言ってくれて、そのまま俺に流されてるんじゃないかって、ずっと思ってた」
「とうま、ちがう、」
「莉子が好きって言ってくれて嬉しかったし、もしそうだとしてもいいやって思ってたけど、ずっと自信なかった」
「待って、」
べたりと濡れた手のひらは、涙と汗でぐちゃぐちゃだった。
思わず縋るようにして加瀬の服を掴んだ。それが振り払われないことに心底ホッとした。
「いつかまた、他の男のところに戻っていくんじゃねーかって、」
「戻ってく、って、なに…」
加瀬はぼうっと目の前のテレビを見つめていた。
表情を変えずに漏らされた言葉たちは、莉子が想像していないものばかりで理解が追いつかない。
「…今日は帰るわ」
「まって、」
「…莉子もまだ、自分の気持ち整理できてないだろ?」
「とう、ま」
「…落ち着いたら、また話そう」
加瀬は莉子の頭をぽん、と優しく撫でて立ち上がった。
掴んでいた服が、するりと手の中から逃げていった。
「とうま、」
「…ちゃんと戸締りしろよ」
待ってと言いたかった。
でも引き留めたところで、加瀬に何を言えばいいのか分からなかった。
莉子を振り返ることなく、加瀬は家を出ていった。
しばらくしてから、鍵を閉めようと呆然と玄関に向かうと、加瀬が渡してくれた紙袋が、ぽつりと床に転がっていた。
せっかく夜遅くに持ってきてくれたこれを、加瀬に最後に見せて、帰させてしまった。
莉子は震える手で中を覗き、加瀬が自分のために選んだであろうプリンを見つめた。
中に一緒に入っていたプリンは、加瀬が好きでいつも食べているものだった。
これを選んでくれた気持ちを思いきり踏み躙ってしまった事実に、また涙が溢れた。