ひとつの秩序
 
 
 
 
自由に空を羽ばたく鳥のようだと思った。
だから、俺がそばにいることは、籠に閉じ込めることと同じなのではないかと思っていた。





いつから好きだったの?って聞かれて、考えた。
けどその記憶の始まりは、あまりに長すぎて、重すぎて、どの瞬間がスタートだったか判別できない。

「私、先輩と、っ、キスしたっ」
「…」

そう言われて頭に浮かんだのは、俺なんかに羨ましいと言った、あの人。
どこが羨ましいんだと、ぼんやりと思った記憶がある。
俺が喉から手が出るほど欲しいもの、全部持っているくせに。

「昨日、先輩が作った、図書館の展示室、見せて、もらってっ、そこで、」
「…無理やり?」
「っ、でも、避けようと、思えば、避けれた…っ」
「……嫌じゃなかった?」

自分の発している言葉が、ぼんやりと遠くから聞こえてくる。
怒りも、絶望も、感じなかった。
莉子に、泣いてほしくはないのに、きっと泣かせているのは俺のせいなんだろう。

「びっくり、して、どうしていいか、分かんなくて、っ」
「…付き合ってって、言われたの?」
「っうん、」

あの人なら、こんな気持ちにさせないだろう。
どうしていいか分からなくて、莉子をしんどくさせたりしないんだろう。
俺にはさせられない気持ちと体験を、莉子に与えるんだろう。
こんなにすごい比較対象が、常に隣にいて、俺が勝てるわけなかったんだ。


「…俺と、別れたい?」
「ちがう…っ」

違うという言葉に、心底ホッとした。
まだ縋り付いていてもいいんだという気持ちが湧き出てしまう。

自由に、楽しそうにしているところが何よりも好きだ。
だから、いつか、俺の執着が重すぎて、莉子を潰してしまうことが、一番嫌だ。


少しずつ欲望を小出しにして、莉子がそれを笑って受け入れてくれるたびに、莉子が好きだと言ってくれるたびに、安心して、それに救われている。

最後には、俺が、莉子をいつか、鳥籠の中に閉じ込めてしまうんじゃないか。


「……莉子は、なんで俺が好きなの?」


自分の執着をどんどん正当化して、深みにはまっていく。
だからこそ、俺は俺に、恐怖を感じる。


「と、透真が、いなくなるのが、嫌だと思ったから…」
「…俺があの時、友達に戻ろうって言ったからだろ?」

ずっと心のどこかで思っていた言葉が、堰を切ったように溢れ出してくる。
友達のふりをしてそばにいた、そのツケが、回ってきたんだろう。



俺がいなくても、輝いて、自由に飛び回っていて欲しい。
でも、俺の方を向いていて欲しい。



「え、なに、」
「泣き落としみたいだったなって、ずっと思ってた。ずっと友達だった俺がいなくなりそうで、それが嫌だっただけなんじゃないかって」
「ちが、待って、」

莉子の頬に涙の跡が残っている。
次々に溢れてくるそれを、拭ってやりたいのに、どこか遠くの世界を見ているみたいに、身体が動かない。


「いつかまた、他の男のところに戻っていくんじゃねーかって、」
「戻ってく、って、なに…」

ああ、言うつもりなんかなかったのに。











「…落ち着いたら、また話そう」

そう言って、莉子の家を出た。
そんな機会が来るのかすら、もう分からない。
もしかしたら、今日会うのが最後かもしれないとすら思った。

アパートの裏にある自転車置き場には、ぽつりと自分の自転車だけが停まっていた。
音を立てないようにそれを動かすと、油の切れたチェーンが、夜の静寂の中でカラカラと乾いた音を立てていた。


つい数ヶ月前、ついこのあたりで、莉子に多分好きだと抱きつかれたことが脳裏に浮かぶ。

友達のふりという、安全装置がなくなって、ブレーキが効かなくなった。
好きという気持ちを出してはいけなかった。だから、この執着も、独占欲も隠して来れた。

好きと言われて、好きと返していい。

蛇口が壊れたように溢れ出した感情は、もう自分でも制御できない。
莉子が笑ってくれるたびに、俺は、衝動を、必死に喉の奥へ押し戻してきた。
傷つけたいわけじゃない。でも、俺の隣にいることが鳥の翼を折ることになるのなら、俺は俺を許せない。


あの時、もうやめようと思ったのは本当だった。
莉子が選べなくて苦しんでいるなら、引いた方がいいと、俺がその自由さを奪ってはいけないと思って、自分なりに頑張ってきたけれど、引こうと思った。


俺は俺よりも、莉子が大切だから。


けれど最後の足掻きで、すぐに自転車に乗らなかった。
莉子が、少しでも、後から、俺を思い出してくれればいいと思って、ちょっとでも記憶に残りたくて、自転車を引いたまま歩いた。そうしたら、莉子が追いかけてくれた。

ほら、俺は、莉子が思っているような人間じゃないから。
虎視眈々と、隣で、ずっとチャンスを伺っていたような男なんだよ。


「…なんでかな…」

けれど今日は、俺が莉子を傷つけたんだから、俺が離れるべきだ。
あの人を選びたいけど選べなかった莉子を、騙し騙しそばに置いていた。

好きだと言われて、キスもして、その先もして、あの笑顔が俺にだけに向いていると錯覚して、まるで夢だと思っていたけれど、やっぱり夢だったんだろう。


自転車を漕ぐ足が棒のように感じる。
さっきまで触れていた莉子の体温も、泣きじゃくる声も、この音にかき消されて、遠い出来事のように感じられる。
気温は低くないはずなのに、ハンドルを握る指先だけが、感覚を失ったように冷え切っていた。

漕いでいる感覚すらなくて、先ほどの莉子の顔だけは鮮明に思い出せるのに、現実味がない。


あっという間に家に着いて、思ったよりも自分が速く自転車を漕いでいたことに気づいた。
涙は出ない。だって、元々俺のものではなかったのだから。


「あ……」

玄関の電気をつけた瞬間、靴箱の上の黒いリップが目に飛び込んできた。
渡すのを忘れていた、小さな四角い塊。

気持ちの整理は、俺はとっくについている。
ずっとそれに怯えながら、見ないふりをしてそばにいたんだから。

この家は、莉子のもので溢れている。
洗面所に行けばヘアアイロンがあって、キッチンに行けば花柄のマグカップが置いてあって、ベッドの脇には、お揃いの部屋着がかけてある。

「浮かれすぎだろ…」


きっと、自分が好きだと意識する前から、好きだったから。

温泉で聞かれた時、引かれるんじゃないかと思って言えなかったんじゃなくて、本当に分からなかった。

それくらい前から、俺は莉子が好きだったよ。

あまりにも長く、あまりにも深くて、好きになった瞬間という点は、存在しない。
まるで、呪いみたいな、地獄。


キスされたことなんて、どうでもいいよ。
それよりも、それでもいいから、あの人のことが好きでもいいから、俺のそばにいてよ。



 
 
 
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