ひとつの秩序
週末は、当然会う話にはならなかった。
連絡も来なかった。加瀬をきっと深く傷つけたのだから、当たり前だと思った。
莉子から加瀬に何度もメッセージを送ろうとしても、適切な言葉など存在しないように思えて、これで終わってしまうのが怖くて、何度もスマホを開いて、何度もやめた。
別れたいの?と、まっすぐな顔で言われたのが怖かった。
そうなってもいいと、思われているみたいだった。
いつかまた、他の男のところに戻っていく。
そう思われながら、今まで付き合っていたのかと、その不安を抱えながら、接していたのかと。
なんで好きなのか。
その問いにすぐ答えられるように、考えておけばよかった。
今のままじゃ、加瀬に何も話せない。
「南さん、企業のコミュニケーションラウンジの配置、最終確認してほしいです」
夏目の声に、莉子は画面から顔を上げた。
加瀬と会えなかった週明けから、莉子は仕事に没頭していた。
むしろそれしか逃げ道がなかった。
「うん、一緒に見よう」
そう言いながら、莉子は椅子を引いて立ち上がり、夏目のデスクの横に回った。
モニターには、整然と並んだデスクレイアウトが映し出されている。
均等に揃えられた間隔、無駄のない通路幅、椅子を引いたときの可動域もきちんと確保されている。
キャンドルの案件はなんとか形になって、一旦莉子の手から離れた。
今は施工会社や美術側とのやりとりがメインで、工事が完了してからまた頑張らなければいけない。
「今回は常設ってことで長期利用だし、打ち合わせや社内向け空間ってことなので、使いやすさをもっと考えてみたんです。で、ちょっと通路の流れが詰まらないように列を前に出してみました」
「なるほど」
「五センチだけなんですけど、どうでしょう」
画面を覗き込みながら、莉子は軽く頷く。
確かに、ほんの少しの差なのに、動線が滑らかに見える。
「いいね。なんか、すっと抜ける感じする」
「ほんとですか?」
「うん、前より全然いい」
ぱっと明るくなる夏目の声に、莉子は小さく笑った。
心は奥で死んでいるのに、表面上で笑うことも、できるようになった。
「…これ、席数は変わってないよね?」
「はい、変えてないです。通路を少し詰めて、その分で調整しました」
「そっか、問題ないね」
たった五センチで、空間の印象が変わる。
こういう微調整は、自分よりも夏目の方が感覚的に上手い気がする。
そう思いながら、莉子は画面の端に表示されている寸法を目で追った。
通路幅も、基準はクリアしている。
数値としては問題ない。
「椅子引いたとき、後ろぶつからない?」
「一応、最小可動域は確保してます」
「…うん」
最小という言葉に、ほんの一瞬だけ引っかかりを覚えたが、すぐに流した。
この規模の空間で、すべてに余裕を持たせるのは現実的じゃない。どこかで削って、どこかで成立させるしかない。
「じゃあ、これでいこうか」
「はい!」
夏目がすぐに頷く。ちらりと見たその横顔は、少し誇らしげだった。
自分が考えた配置が、そのまま採用されたことが嬉しいのだろう。
「南さん、今日なんか絶好調ですか?」
「え?」
「いや、いつももうちょっと悩むじゃないですか」
「あー…そうかな…」
莉子は曖昧に笑った。
悩んでいないわけじゃない。ただ、現実から目を背ける先がここしかないだけだ。
「あ、配線は?それも確認しよ」
「あ、はい。コンセントですか?」
「そう。コンセント位置、影響出ないかも」
夏目は慣れた手つきで図面のレイヤーを切り替えた。
床下の配線ラインと、ポイントの位置が淡く浮かび上がる。
「フリーアクセスなんで、基本はどこでも引けます」
「…うん、でも待って、ここ少しズレてない?」
画面を覗き込みながら莉子が言った。
指先で示した位置に、夏目が視線を落とす。
「このあたり、ちょっとだけ寄ってる気がするけど…」
「あー……このくらいなら、現場で、配線の取り回しで調整できるかなって…」
「うーん、まぁ確かに、床下で振れる範囲だから、そこまでシビアじゃないか」
「まずいですか?」
「いや、什器も寄せる前提だし、多少寄っても影響は出にくいから、大丈夫かな」
夏目が慌てて、配線レイヤーと、什器配置を重ねて見比べながらそう言った。
莉子も一緒に目で追いながら確認する。
完全に固定されているわけではないし、多少のズレなら現場で吸収することもある。図面上で完璧に合わせきれない部分は、どうしても出てくる。
最終的な微調整は現場で、というのも珍しい話ではない。
「じゃあ、この配置でFIXしようか」
「はい!このあと、什器リストと合わせて、施工に流す形でいいですか?」
「うん、今日中に一回まとめちゃおう」
「分かりました」
キーボードを叩く音が、隣で軽やかに響く。
迷いのないその手元を横目に見ながら、莉子は自分の席に戻った。
椅子に腰掛け、再び画面に向き合う。
「南」
「は、い」
あれからは図書館の案件なのか、最近はオフィスにいないことが多かった片倉だが、今日は昼からは会社に戻ってきていた。
片倉のスケジュールすらも確認することができていなかった莉子は、その言葉に思わず返事が固くなる。
「大丈夫?オフィスの案件は初めてでしょ」
「はい…後で先輩にも、最終送るので、確認してもらってもいいですか…」
「うん、でも俺は最終確認だけだから、数字は南がしっかりね」
「は、はい」
夏目が静に奥から呼び出されて、シェアスペースへと駆けていった。
莉子とやっている案件の他に、ちょこちょこと雑務を任されているようになってきている。
「…図書館、もうすぐオープンするよ」
「……そう、なんですか…」
夏目が向かいにいたから、片倉の存在を意識しなくてもなんとか仕事ができていたのに。
「…しばらくは関係者だけだから、…見に来たら」
「……え、と」
「…社長が作った図書館、見たくないの?」
「そ、れは」
見たいに決まっている。
片倉の展示室にも、展示されるものが運び込まれたのだろうか。
あの空間の、完成形が、見たくてたまらない。
でも、またあそこに戻されたら、今後こそ加瀬の顔が見られない。
「ホール、養生シート外れたよ」
「…」
「社長のこだわった空間。好きでしょ?」
「…っずるいですよ…」
キーボードに落としていた視線を片倉に向けると、目が合った。
少し眉を下げて、片倉は笑っていた。
「ごめんね」
「…謝るなら、そんな話しないでください…」
「なりふり、かまってられないからさ」
「…」
急所を的確に突くように攻められると、もうどうしたらいいのか分からない。
加瀬と、別れたいなどと思っていない。
それでも、片倉を拒絶できない。
仕事も才能も、弱さも、好きだった理由さえも、言語化して目の前に置いてしまったのは自分だ。
あの日、私は、理由がない透真よりも、理由だらけの先輩に、抗えなかった。
「…彼氏に、言ったの?」
「……」
「…許して、もらえた?」
「…やめてください…」
あの真っ白な空間で、私はまた、先輩を拒絶できる気がしない。
自分から噴き出てくる泥さえも、塗りつぶされてしまいそうだから。
「…全部、投げ出しちゃいなよ」
「……そんなこと、」
片倉は、ぎしりと音を立てて椅子の背に頭をもたれさせた。
窓から差し込む光が、黒い髪色を少し透けさせてキラキラと光っている。
「…待ってるから、ずっと」
まるで、先輩が作る空間みたいだ。