ひとつの秩序
 
 
 
 
「えっ、あんた、なんて顔してんの?」
「し、ずかさん…」

片倉は莉子に、誘惑だけを告げて、また打ち合わせへと出ていった。
図書館の展示室という大型の案件をこなしながらも、複数の案件も今までと変わらず担当しているらしい。

莉子はあれから一気に集中が切れ、でも家には帰りたくなくて、残業をしていた。
帰ったら、何もしない時間が生まれてしまう。

何か粗はないか、やっておくことはないか、ほかに何かないか、探せばいくらでも仕事はあった。目の奥が疲れてトイレに行くと、ちょうど出てきた静に声をかけられた。

「また残業?昨日もしてなかった?そんなやること溜まってる?」
「いや…色々…」
「…南、ちょっと付き合ってよ」
「え?」
「シュラスコにかぶりつきたい気分なのよ」
「どんな気分…?」

そのまま静に引っ張られて、トイレに行くタイミングも失ったまま、流れるように片付けをさせられ、そのまま連れてこられたのは、渋谷のシュラスコ食べ放題を謳うレストランだった。



「一旦イチボと、ランプ、バターローストポテト、ガーリックライス下さーい。あとビール。南は?」
「えっと…お肉は同じもので…えーっと…オリジナルサラダと…ウーロン茶で」

外国人の男性店員が、ニコリと笑って去っていった。
静はメニューをテーブルの隅に立て掛けながら、不満そうに莉子に言う。

「えー飲まないの?米は?米!」
「食欲ないんですよぉ…」

少し暗い店内はガラス張りになっていて、大きな窓越しに夜の街の光が遠くまで広がっている。
莉子はここ数日食事をとる気にならなくて最低限しかしていなかった。
空腹もあまり感じていなかったが、店内は美味しそうな匂いに満ちていて、少しだけ食欲が湧く。

「そんなに?何があったの?別れた?」
「別れてはないです…なんていうか…うーん…」
「はい、じゃあまず時系列に沿って最初から。まずは?」
「えーっと…」

静に促されながら莉子は記憶を整理しながら話し出す。
運ばれた肉を上品にフォークとナイフで切り分けながら、静は話を聞いてくれた。

「片倉やるじゃんー、相変わらずネチっこいけど」
「ネチ…」
「あんたのクリエイターとしての本能を刺激するのよねぇ、片倉って」
「え?」
「根っからのクリエイターじゃん。つまり、あんたは片倉が作る空間が性癖なの」
「せ、」

刺そうとした肉が皿の上でツルリと滑り、高い金属音を立てた。
静がむしゃりと肉にかぶりつく。
上品に切り分ける所作が台無しだ。相変わらず黙っていれば綺麗な人なのに。そんなことを思いながら莉子も肉を口にする。

「片倉ばっかりだと思ってるかもだけど、南だってすっごい片倉に執着してるんだからね?」
「え…」
「そりゃ、あんたの仕事の根幹っていうか、支柱みたいな存在でしょ。片倉がいなくなるかもって思って泣いちゃうくらいに、自分の半分なのよ」
「そう、なのかな…」
「彼氏がいて幸せなのに、片倉にも幸福を感じる。そりゃあ、片倉も止まらなくなるわよねー」

莉子は何も言えなくなって、口の中に残った塊を噛みほぐす。
もっと柔らかい部位を頼めばよかった、今の莉子にはイチボを噛み切る力は残っていない。

「じゃあ私は、なんで先輩の前で泣いたんだろう…」
「んー、矛盾と、強欲さ?喪失の恐怖と、執着…それに気づいて情けなくて、怖かったんじゃない?」
「わぁ…全部言語化されてるぅ…」

サクサクと静によって言葉にされた自分の感情達が、ナイフのように突き刺さってくる。ナイフが当たる金属音が、時折会話に混ざって消えていく。

フォークを持つ指先にうっすら力が入らなくて、肉を刺したはずなのに少し滑って、皿の上で鈍い音を立てた。


「片倉の魂の結晶みたいな場所で、圧倒的な才能と、南に見せたかったって特別扱いをぶつけられて、女としてもクリエイターとしても依存と愛と執着がごちゃごちゃになっちゃったのねー」
「愛って…私…先輩が好きなんですかね…?」
「そんなの私が知るわけなくない?」
「うぅ…」

莉子の様子など気にも止めず、静は店員に追加の肉とアルコールを頼んでいた。
大きな串に刺さった肉が、そのままテーブルまで運ばれてきて、ナイフが入るたびに、じゅわっと肉汁が滲んでいた。

それをぼうっと見ながら、莉子は言った。

「…社長の図書館、静さん一緒に行ってくださいよ」
「えー?私が着いていったら邪魔じゃん。片倉に連れていってもらいなさいよ」
「そんなの…また一人で行ったら私…」
「それで片倉に流されちゃうようなら、そういう気持ちだったってことよ」
「流されて付き合うとか、そんなの…」

莉子の目の前で、静のグラスのビールの泡が、ゆっくりとグラスの中で弾けていく。
グラスの中の氷が、光を受けて鈍く光っている。

「とりあえず、ちょっと気持ちの整理してから行くことね。今のままだと絶対流されて付き合いそうだし、なんならそのまま最後までしそう」
「そっ、そんなこと流石に…!」

静の言葉に莉子は飲もうとしていたウーロン茶を吹き出しそうになる。
ざわざわした空間で助かった。そう思いながら莉子はグラスを置いた。

「いや、だって片倉よ?頭は切れるし、あんた既にグラグラじゃん。なりふりかまわないって言ってんだし、こんなチャンス、普通にいけそうならいくでしょ」
「やめてください…だって私…ちゃんと彼氏のこと好きなのに…」
「別にそこは否定してないし、片倉も分かってるでしょ。流しちゃえば一旦どうでもなるのよ、後からじわじわ気持ちなんか引っ張れるんだから。何も思ってなかった友達のこと好きになったのと一緒」

窓の外の夜景が綺麗なのに、どこか遠すぎて、自分とは無関係な世界のように見える。
テーブルの上だけが明るくて、その外側が暗いせいで、逃げ場がないように感じながら、莉子はフォークを置いた。これ以上は何も食べられない。


「私…もうダメダメです…一回先輩のことちゃんと断ったはずなのに…何やってるんだろ…」

静は莉子を横目に見ながら、仕方なさそうな笑みを漏らした。
グラスやカトラリーが触れ合う金属音が、やけに鮮明に耳に残る。


「無防備だからね、南は」
「そんなに…?」
「彼氏は堪らないでしょうね」

静は切り分けた肉を口に運んだ。
その顔には柔らかい笑みが浮かべられていた。

「なんにも考えてないで、相手の一番欲しい言葉を無意識に投げちゃうんだもん。攻略したと思ったら、別の男に、いなくなっちゃうんですか?なんて泣きつく」
「…それは…」
「元々は、なーんにも警戒してなかった友達でしょ?でも好きになった。その友達は、どんな顔で、どんな戦略で、その無防備を攻略したのかしらね?」
「…」
「でも南は変わらずずーっと無防備。夏目にも、片倉にも。手に入ったように感じるのに、いつかまた他の誰かに攻略されそう。隙だらけで、でもそんなところが魅力的で、欲しくてたまらない」

それは、私が悪いということなのだろうか。
どうしたら、加瀬の不安は取り除けるのだろうか。

莉子の顔を見て、静は顔を少ししかめた後に笑った。

「私は、南のそういうところが可愛いと思っちゃうけどね。だから好かれるのよ、あんたは」
「静さぁん…」
「ふふ、思わず友達だった男に抱きついて、多分好きかもって言った時の気持ち、思い出してみな」


もう、あれから三ヶ月が経っていた。
グラスを持つ手のひらがじんわり湿っていて、冷たいはずのウーロン茶の水滴と区別がつかなくなっていた。

 
 
 
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