ひとつの秩序
 
 
 
 
その週の週末も、何も動けなかった。
考えてもわからなくて、仕事をしているだけで時間が過ぎていった。

そして、加瀬と最後に話してから、二週間が過ぎていた。
予定を入れる気にはなれなかった土曜日。
昼下がり、気分転換にカフェでも行こうと歩いていたら、なんとなく見覚えのある道に出た。

「あ…」

なんとなく見覚えがあると思ってぼんやりと歩いていると、脳裏に加瀬の顔が浮かんだ。一緒に、歩いたことがある道だ。
知らないうちに、加瀬の家の近くまで、歩いていたらしい。

莉子はたまらず、加瀬に電話をかけた。

『…はい』
「あの、とう、ま…」

二週間ぶりに聞く加瀬の声は、いつもより固かった。
見覚えのある道を進むと、見知ったスーパーやコンビニ、加瀬の家が見えてきた。

『…どうした』
「あの…今、家にいる…?」
『…いるけど』
「一人…?」
『…うん。なんで?』

静かな声が、スマホ越しに響いては溶けていく。
この声が、ずっと聞きたかった気がする。

「今、透真の家の近くまで来てて…ちょっと会えるかな。ごめん、急に…」

わかった。と、しばらく黙った後に加瀬が短く言った。
沈黙が、拒否の言葉を探しているんじゃないかと思って、怖かった。




「…あの、透真…」
「…歩いてきたの?一人で?」
「あ、うん…」
「…気をつけろよ」
「…まだ昼だよ……」

こんな時まで、そんなこと言うの。

加瀬が家から出てきて、こっち、と指差した方に歩いた。
隣を歩いてはいけないような気がして、斜め後ろを着いて行った。
もう家にも上げてもらえないんだ、と思うと、涙がこぼれそうだった。

「あの…急にごめん…」
「いいよ。ちょっと公園向かってるから、話はそこまで待って」
「あ…うん…」

歩きながら話しかけることすら、許されないのか。
そう思うと、堪えきれなかった涙が一筋溢れた。隣を歩いていなくてよかったと、急いでそれを拭った。


当然だ。それだけの裏切りを、したのだから。






公園に着くと、加瀬はふらりとベンチに座った。
隣に座っていいものか迷って、手が触れない距離をあけて、莉子も座った。

「…ごめん、さっきは話、遮って」
「あ、ううん…あの、私、まだぐちゃぐちゃで…でも、透真に…あの…」

会いたかった。声が聞きたかった。
そう言ったら、また拒絶されてしまうだろうか。

何を都合のいいことを言っているんだ。そう思われてしまうだろうか。
加瀬に、何かを言えなくなるなんてこと、今までなかったのに。


「…いいよ、無理しなくて」
「え…」
「もし先輩と付き合うなら、すっぱりそう言ってくれていいし…友達に戻りたいって話なら…まぁ…俺は、」
「ちがうっ!」

加瀬の言葉の続きにくるものが聞きたくなくて、思わず発した言葉は思ったよりも響いた。

「…違うの?」
「ちがう、そんな話をしにきたんじゃなくて…私は…ただ…」

なんでそんなに、受け入れるの?
私が先輩と付き合っても、いいってこと?
友達に戻りたいって言ったら、いいよって、言うの?
裏切った女のことなんか、もう好きじゃなくなった?

「…っ」

先輩が彼女と同棲したと、報告した時は、私のことが好きだったと言っていた。
この関係は、透真が私のことを好いてくれていたから、成り立っていたんだろうか。

え、そしたら、もう私のことが好きじゃなくなったら、幻滅していたら、ここで、透真とはもう終わりっていうこと?もう、話をすることすら、できないってこと?

くだらない話も、ふざけ合いも、


「私は…っ、透真が…」


もう、あの包み込むような声で、好きだという加瀬は、見られないのだろうか。
がっしりとした筋肉が、寝ている間に、私をきつく抱きしめることも、ないのだろうか。

あの長い指先が、優しく、宝物を触るように、私の肌に触れることも?



ああ、先輩を選ぶというのは、そういうことなのか。



「…スマホ、鳴ってる」
「え、」

息を少し吐いた瞬間、加瀬がそう言った。
小さいショルダーバッグに入れていたスマホが、加瀬と莉子の間で痙攣していた。

夢中になっていて気づいていなかった莉子が画面を見ると、電話だった。
片倉の名前が表示されている。

「えっ」
「……」

プライベートの時間に電話なんてしたこと、今まで一度もないのに。
どうして今このタイミングで。

「あ、後でかけ直す…」

きっと加瀬も、この画面を見ていた。
ぷつりと電話が切れたスマホをバッグにしまおうとしていると、再度電話がかかってくる。びくりと肩が揺れ、画面を見るとまた片倉の名前が出ていた。

「…出たら?緊急かもしれないし」
「……うん…」

莉子がスマホをタップすると、少しだけ固い片倉の声が飛び込んできた。

『南、休みの日にごめん。こないだのオフィスラウンジの施工会社から連絡きたんだけど、今一旦作業中断してるって』
「え?」

自分の声がやけに大きく聞こえた。
隣に座っている加瀬が、ちらりと莉子を見たのが分かった。

『電源回路が、モニターと照明とコンセント、同じラインに乗ってるって。このままだとブレーカー落ちる可能性が高いらしいんだけど、電源回路って確認した?』
「えっと…延長で大丈夫って確認して…」

背筋が冷たくなる。配置の図面は頭に浮かぶのに、回路の情報が出てこない。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨の内側を叩くみたいに、嫌な動悸が止まらない。

『位置の話じゃなくて?容量みた?機材どこに集中してたか分かる?』
「容量…見てません…。機材は北側の…壁面にモニターと可動什器、その周辺にコンセント多くとってて」
『照明もその辺りだったよね、じゃあ完全に偏ってるね』
「ごめんなさい…!」

片倉が淡々とした声で言った。

『謝るのは後。とりあえず、回路分けるか配置変えるかだけど、今から回路の増設は難しいしコストもかかる』
「はい、電気の分散前提で、レイアウト組み直します…!」
『うん、俺も今向かってるから、南もすぐに来れる?施工側が今止めてくれてるみたいだから』
「っはい、行きます!」

気をつけてね、と言って電話がすぐ切れた。
莉子は咄嗟に隣にいた加瀬を見た。加瀬は心配そうにこちらを見ていた。

「仕事のトラブル?大丈夫か?」
「うん、私っ、間違えちゃって、確認ミスしちゃって、いけるって問題ないって、勝手に判断しちゃってっ」
「落ち着け、現場行くんだろ?どこ?」
「えっと、永田町」
「そしたら、こっちから乗ったら一本だから」

加瀬が莉子の手を取って立ち上がらせた。
そして何かに気づいたかのように、弾かれるように指を離した。

「ごめん。行ってこいよ。俺はまた今度でいいから」
「透真、ごめ、ごめん、また、終わったら連絡するから…っ」

莉子はそう言いながら、公園を出た。
ちらりと最後に振り返ると、加瀬はこちらを見ていた。
もう少しで、伝えたいことが見えそうだったのに。そう思うも、焦りが一瞬で加瀬への気持ちをかき消した。



「…まだ、透真って呼んでくれんのか…」

加瀬の自嘲気味の言葉には、当然気づくことができなかった。
今の莉子の頭は、片倉と、トラブルで満ちていた。


 
 
 
 
 
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