ひとつの秩序
 
 
 
 
息を切らして現場に入ると、いつもとは空気が違った。

照明は落とされていて、仮設の白い光だけが天井から均一に落ちている。
空中に舞う細かな粉塵が、その光の柱の中で白く透けて見えた。
養生シートの上を歩く足音がやけに響いた。

「すみません遅くなりました、担当の南です」
「ああ、デザインの方ですね。ちょうど今確認してるところです」

入口付近でヘルメットをかぶった男性に声をかけると、振り返ったその男性はすぐに頷いて、莉子を奥へと促した。
そのまま案内されるように奥へ進むと、床が一部開けられていて、配線がむき出しになっていた。

黒いケーブルが何本も束ねられて、そこに無造作に仮設の延長が繋がれている。

「南、こっち」
「先輩、すみません」
「それは後で。俺もさっき着いたところだから」

片倉が指したところに視線をやると、壁面に設置される予定だった大型モニターの位置に、既に仮の機材が組まれていた。その周囲にスポット照明、床にはコンセントの口が集中している。

「ここ、全部同一回路なんですよ。で、今回想定されてる機材を全部乗せると、完全にオーバーします。一回試しに回したんですけど、即落ちました」

施工会社の担当者が、配線を指差しながら言って、タブレットの画面を見せる。

「ご迷惑をおかけし申し訳ありません。回路を分けるか配置を変えるかですが、回路増設は厳しいと思っています」
「そうですね、工期もコストも跳ねます。正直厳しいですね」
「はい、一旦、配置で対応する方向でいきます。今から組み直します」
「分かりました、他の作業してるのでまた教えてください」
「ありがとうございます」

片倉が作業員に頭を軽く下げ、莉子も隣で深く下げた。
部屋に二人で残されると、片倉はバッグからタブレットを取り出した。

「iPad持ってきたから確認するよ、おいで」
「はい」

片倉が画面を覗き込み、莉子も隣からそれを見る。
隣に並んだ瞬間、石膏ボードの匂いと、清潔なシトラスの香りが混ざり合った。

「今のレイアウトだけど、北側に寄せた理由って何だった?」
「えっと…視線が抜けるようにしたくて、あと入口からの流れで、自然に集まるように…」
「うん、見え方としてはいいね。でも今回は使う空間だから」
「はい…」
「ポップアップって、一時的な電源でも成立するじゃん。多少無理しても、期間で乗り切れるし、最悪見た目が良ければ成立する。けど常設はずっと使う。ストレスなく使えることが最優先」
「すみません…」

片倉の声は、淡々としていた。タブレットから目線を上げて現場を見渡し、配線のところまで歩いてしゃがみ込んだ。何かを確認するかのように覗き込んでいる。

「容量、回路、負荷。見えないけどちゃんと設計しないといけない」
「はい…」
「経験なかったもんなー、南はセンスがあるから、二人でやってた時も、俺がポップアップ多めに引っ張っちゃってて」
「いえ…」
「任せちゃってたし、俺もそこまで確認してなかったから、南だけが悪いんじゃないから、もう謝るのはおしまいね」
「すみません…」
「おしまいって言ったでしょ」

片倉は軽く笑って、立ち上がった。タブレットを取り出して画面を操作する。

「じゃあ、まず北側に寄せるのやめて、モニターここから外すけど、南はどこに逃がす?」
「えっと…このラインなら、別回路拾えるので…」
「うん、いいね。じゃあモニターこっち。照明は?」
「スポットは振れます。間接は…固定なので、影響出ます」
「いいよ、多少崩して。今は落ちないことが優先。什器も分散しよう。ここに集中させる意味、今はないから」

片倉がそう言いながらタッチペンで操作をし、タブレットの上で、配置がどんどん動いていく。トン、トンという無機質なリズムが画面の上で響く。

莉子の意見も聞きながら、片倉が主導してくれていて、まるで、夏目が入社する前のようだと思った。

「よし、この距離なら、負荷分散できるでしょ。一回、実寸で当ててみよう。これ持ってて」
「はいっ」

片倉は莉子にタブレットを渡すと歩き出して、現場で什器の位置を動かした。
テープで床に印をつけて、立ち位置を確認しながら進めていき、いくつかやりとりをした後に立ち上がった。

「いいね。南、月曜に夏目と図面に起こしてね」
「はい」
「今はこれで進める。施工会社と確認してくるから」
「…はい」

片倉がタブレットを片手に部屋から出ていき、奥で鳴っていた作業の音が一瞬止んだ。話し声がいくつか聞こえた後、遠くで指示が聞こえて、現場が再び動き出す。

怒られたわけでも、責められたわけでもなく、事実だけを伝えられたことが重かった。片倉がいてくれて良かった。こんなにも、安心感が違うなんて。

今ここで真っ直ぐ立っていられることが、部屋から消えていった背中を追う自分の目線が、答えのような気がしていた。
















「お疲れー、なんとかなったねー」
「お休みの日に本当にすみませんでした…っ!」
「えー?いいよ、暑いからなんか飲もー」

現場を出て伸びをする片倉の後ろを、莉子が慌ててついていく。
当然ながらクーラーなどついていなかった現場は、夏の始まりの空気が、むわりと広がっていて、片倉の言葉に莉子があたりを見渡す。

「あっ、私に買わせてくださいっ」
「全然いいって」

片倉が道端の自販機へ向かったので、莉子が急いで追いかける。
莉子が財布から小銭を出している間に片倉はスマホを操作し、自販機と接続してスマートに飲み物を購入した。

ガコン、という音が聞こえて水の入ったペットボトルが落ちてくると、片倉はそれを莉子に手渡した。手渡されたペットボトルは、驚くほど冷えていた。

「はい」
「えっ」
「暑かったでしょ、南も」

そんな、と慌てている間に片倉は二本目を購入しており、引っ込みがつかなくなって、小銭入れとペットボトルだけが両手に残った。

「なんでそんなスマートなんですかぁ…」
「ふ、別にそんなことないんだけどな」
「この状況で奢ってもらうって、私…」

自分が情けなくて居た堪れなくて、天を仰ぐようにした莉子を見て、片倉は笑っていた。すると、一瞬何かを思いついたように表情が止まり、少し躊躇った後、言った。

「…俺に何かしたいと思ってくれてるなら、こないだの社長の図書館行こうよ。ちょうど近いし」
「えっ」

片倉が莉子の返事も聞かずに歩き出した。
何も心の準備ができていないのに、気持ちの整理がついていないのに、またあの真っ白な空間に足を踏み入れていいのだろうか。

「せんぱい、っ」

そんな思いが頭をぐるぐる回っている間にも片倉は歩き出し、莉子は流されるように、その後ろ姿を追いかけた。
莉子が追いつくと、ゆっくりと歩いていた片倉の足が止まった。

「だめ?俺、ずるい?」
「…分かってるんじゃないですか…」
「ふ、そりゃあ、南よりは理性で動いてるからね」
「……何も、しないでくださいね」

クリエイターとしての本能と、性癖。
依存と、愛と、執着。

静に言われた時は、そんなこと、と思ったが、あながち間違いではないのかもしれない。


莉子の言葉を聞いて、片倉は眉を下げて笑いながら言った。

「そんな可愛い顔で言ったら、意味ないんじゃない?」
「かっ」
「ここで上目遣いでそんなこと言うの、南もずるいよ」
「私そんな、」

片倉はもう一度笑うと、莉子の頭に手を乗せた。
指先の温かさと、髪の隙間に沈み込むような手のひらの重みを感じたかと思うと、その手はすぐに離れていった。

「何もしないならいいってことでしょ?」

そう言って片倉は歩き出した。


さっきまで加瀬といたのに。

片倉が今から見せてくれるものが、その思想が、空間が、背中が、存在が、恋焦がれているかのように眩しくて、近づきたくて、それを掴み取りたい。

抗えない引力でも、片倉は持っているのだろうか。
足が勝手に、片倉の背中を追いかけていく。

手に持ったペットボトルは、冷たくて、高まった体温にはちょうど良かった。

 
 
 
 
 

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