ひとつの秩序
「どうぞ」
「…誰もいないんですか」
「オープン前の土曜だからね」
「……」
「言っとくけど、さすがの俺も、今日ここに連れてくるのは計算外だよ」
「…そんなこと思ってないですよ…」
片倉の歩みに渋々ついていくと、以前はシートで覆われていた部分が外れていた。
入り口の門に、片倉がカードキーをかざして中に入る。
「わ…」
莉子は思わず言葉を失う。
視界の隅に立っている片倉が、莉子の顔を見て微笑んだ。
通りに面した正面は、ガラスと木材が組み合わされた、軽やかでありながら存在感のある造りだった。内部の様子がうっすらと見え、人の気配が外に滲み出るようになっている。
「左側は高さのあるガラスファサード、縦に淡いグリーンのガラスフィンが光を受けて透ける」
「…すごい」
「時間帯で表情が変わり、昼は透明感、夕方は反射で街を映し込む。右側の木製ルーバーは直線的なのに柔らかい陰影を作って、直射日光を遮って、中への光をコントロールする、だって」
「えっ、社長がそう言ってたんですか?」
「うん、気になって聞いちゃった。凄すぎて思わずメモった」
「あとでもう一回教えてください…」
莉子の言葉に、片倉は笑った。
その顔が、好きだと言っていることに、最近気づけるようになった。
「南は好きだと思った」
「私の好み知りすぎてますよ…」
「そりゃ、五年の付き合いだからね」
もう、五年になるのかとぼんやり思った。
片倉を好きだと気づいたのは、いつだったろうか。
追いつきたくて、かっこよくて、いつかこの人の隣に立ちたいと思ったのがきっかけだった気がする。
「中も見たいでしょ」
「見たいです…」
「うん、おいで」
おいでと、さっきも言ってくれたな。
この人の、優しく自分を呼び寄せるその言葉が、毎回嬉しかった。
そばにいていいんだと、隣に立っていいんだと、言われているようで。
「わ…」
中に入り、エントランスを抜けると、外のざわつきがすっと引いて、音が吸われるような感覚に変わって、空気が一段階だけ静かになった気がした。
視界の先に広がるのは、緩やかに段差が連なる半円状の空間で、それは階段のようであり、客席のようであり、その一段一段に本が差し込まれている。
「木の質感が…」
「やわらかいよね。角は全部丸くて、どこにも引っかかりがない」
「この空間すごい好きです…」
「ね。誰かが座ってもいいし、何も起きなくても成立する。使われる前提なのに、使われなくても完成しているって感じするよね」
莉子の言いたいことが、全て隣から言語化されて降りてくる。
「凄すぎます…」
「ね、俺なんかまだまだだなーって思い知らされるよ」
片倉は笑みを浮かべながら言った。自分の好みなど、全て知られている。
変なことをされるかもしれないと思って身構えていた自分が少しだけ恥ずかしくなった。
「先輩でもそんなこと思うなんて…私もいつかこんな空間作りたいのに、あんなミスして…」
「ふ、まだ言ってんの?ちなみに俺も似たようなことやってるよ。コーヒーマシンと冷蔵ショーケースと照明、全部同一回路にのせて、クライアント立ち会い中に全部真っ暗になった」
「えっ!?」
片倉は「おいで」と手招きをして、まだ本が搬入されていない図書館の中を歩いた。ぽっかりと穴の空いた棚が続いていて、運び込まれるのを待っている。
大きな窓があるのに、窓際は机と椅子しかなく、本棚には直射日光が当たらないように計算されている。
「終わったわーって思ったな。だから大丈夫だよ、リカバリーできたし」
「そ、その後どうなったんですか」
「パニックになりながらなんとか修正したよ」
「先輩もそんなことあるんだ…てかパニックになるんだ」
莉子の言葉に片倉は吹き出しながら「なるよ、だからもう気にしないの」と言った。
前を歩く片倉との距離が、少しだけ掴めそうな気がして、まだワックスの匂いが残る床を歩いた。
先輩の隣にいたい。
たくさん理由も思い浮かぶ。
自分のことをこれ以上ないくらい理解してくれていて、隣にいるのが心地良い。
先輩の作る空間が好きで、いつまでもそこに浸っていたい。
透真のことが好きな気持ちも、変わらずあるのに、それとどこが違うんだろう。
どうして先輩にだけ、理由がある?
先輩を選ぶということは、つまり、
「…っ」
バッグに入れていたスマホから、ブブ、という低い振動音が、物音ひとつない図書館に響いた。
画面に浮かぶ「加瀬 透真」の文字が、薄暗くなり始めた館内で青白く発光し、莉子の指先を冷たく染めた。
「…彼氏?」
「……先輩から電話きた時…話してて…」
「ふうん、出たら?心配してるんじゃない?」
確かに、昼間に話していたはずなのに、もう夕方になっている。
慌てて飛び出してきた時のことを思い出して、莉子はスマホを握りしめた。
まだ、私のこと、心配してくれるんだろうか。
「…もしもし」
『あ…ごめん…大丈夫だったかなって』
「うん…さっき終わって…」
『…そっか。大丈夫だった?なんとかなった?』
遠慮がちな声が耳元で響いて、それが温かく広がって、スマホを持つ手がじわりと湿っていく。
「うん、何とか」
『そっか、良かった』
「…あの…」
『うん。…続き、この後話せる?』
もし、加瀬が何かを宣告しようとしているなら、どうしよう。
そう思って、一瞬だけ言葉に詰まった。その瞬間、
「南、そろそろここ出なきゃ」
少し先にいた片倉の声が、広いホールに少しだけ反響して響いた。
日が落ちてきていて、いつの間にか少し薄暗くなった空間で、片倉がこちらを見て微笑んでいた。
『…まだ一緒にいんの?』
「あ…っ、えっと…待ってて、行くから…っ」
『…もう暗くなるから、駅に着いたら教えて』
「わ、分かった…」
『じゃあ、また後で』そう言って、電話が切れた。
耳に当てたままのスマホから、ぷつりと回線が切れた音がした。
だらりと腕を下ろして、少し先で待つ片倉の元へと歩いた。
ぽっかりと空いた本棚の列が、奥へ行くほど深い闇に飲み込まれていき、温かかった木の質感は、光を失っていた。
さっきまで優しかったはずの空間が、じとりと追いかけてくるみたいだった。
「さすがにまだオープンしてないのに、夜に電気つけてたら良くないからさ」
莉子が片倉の元に追いつくと、カードキーを見せながら言った。
その顔は少しだけ陰っていて、莉子の角度からは見えなかった。
「…気まずそうだったね?」
「……わざとですか…?」
ふ、と鼻から抜けるように、こぼれていくように片倉が笑った。
いつか、七菜香に言われた言葉が、今になってぼんやりと思い出される。
——「きっと、優しいだけじゃないよ?」
分かってる。なりふり構わないというのは、そういうことなんだろう。
「南、俺はね」
図書館って、こんなに怪しくて不穏な空間じゃないのに。
「南が、どうしても欲しい」
「…でも、わたし、」
「依存でも、憧れでもいい。逃げでもいい。隣にいてくれたら、ずっと穏やかに、安心させてあげる」
なんて、甘美な誘いを、穏やかに落としていくんだろう。
一つずつそれを辿っていったら、いつかお菓子の家にでも辿りつくのだろうか。
ヘンゼルとグレーテルのように、その先に罠などはないのだろう。
きっと一生、悩まずに。
「…行こうか。何もしないって約束したしね」
片倉がそう言って、戸締りをする様子を、莉子はぼうっと見ていた。
駅までは、何も話さなかった。
夕暮れが追いかけているみたいな空間が頭から離れなくて、莉子はずっと俯いていた。