ひとつの秩序
 
 
 
 
 
電車に乗っている間に、雨が降り出していた。
水滴がガラスを叩きつけるのを見ながら、こんな状態で迎えにきてもらうのは申し訳ないと思い、加瀬にメッセージは送らなかった。

ピンポン、と玄関のチャイムを鳴らした。
合鍵はキーケースに入っていたけれど、それを勝手に使うことは許されないような気がした。

「…連絡してって言ったじゃん」

玄関の扉が重く開き、顔を覗かせた加瀬が眉を顰めながら言った。
そのまま莉子の手に持った傘に視線を移した。

「わざわざ傘買ったの?持ってなかっただろ」
「あ、うん…駅で…」
「……俺ん家でも、大丈夫?」

家に上げることすら、もしかしたら加瀬は嫌なのかもしれない。
だって先ほども、わざわざ公園まで移動したのだから。そう思うと心臓が大きく音を立てて、掠れた声が漏れた。

「じゃあ、入って」
「…お邪魔します…」

靴を脱ぐ際に玄関のシューズボックスに手をつくと、いつか忘れていったリップが置いてあるのが見えた。春の新色だと言ってはしゃいだ、瑞々しいコーラルピンクのリップは、加瀬とのデートで買ったものだ。

「…なんか飲む?腹減ってる?」

加瀬がリビングの時計をちらりと見ながら言った。短針は六を指していて、莉子もそちらに視線を送った。

「あ、ううん…大丈夫…加瀬は…?もう夜ご飯食べるの…?」
「そっか。俺もまだ大丈夫」

テレビのついていない部屋では、外の雨の音と、時計の針の音だけが目立った。
これほどまでに加瀬と気まずい空気が流れたことなんて、今まで一度もなかった。

「…座れば」
「うん…」

ダイニングテーブルのそばで立ったままの莉子に、加瀬が促した。
加瀬の隣に座りたくて、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。

「…トラブル、何だったの?」
「あ…えっと…電気系とかコンセントを、同じ電源からまとめて取っちゃってて…使うとブレーカーが落ちる状態だったっていう感じ」
「へえ、そんなことあんの」
「うん、私今まで、常設の経験が少なくて…短期ポップアップとかだと外から引っ張ってきちゃったり多少強引でもいけるんだけど、そういう数値の確認が漏れてて」

まるで、付き合う前みたいな距離だった。
少し身体を動かしても触れることはなくて、でもその距離を今選んだのは自分で、その原因を作ったことが自分の行動にあるということが、情けない。

「そういうの、どうやって対処すんの」
「えっと、回路を増やすか配置を変えるかどっちかかな」
「どう違うの?」
「新しく電気回路を増やすってなると別の工事が必要だったり、壁閉じてたりするとコストも上がるから、基本的にはレイアウトを動かしてって感じ」

加瀬の視線は、消えたままのテレビ画面に固定されている。
「へえ」と言ったその横顔からは、感情が読み取れなかった。

「今回も配置を変えたの?そんなすぐに出来んの?」
「その場で図面見ながら、回路と場所の確認しながら調節して…すぐってわけじゃないけど、何とか」
「…あの人も一緒の案件だったの?」

あの人、だけで誰のことか伝わる。
背筋が無意識に伸びて、息が少しだけ漏れた。
窓を叩く不規則な雨粒の音が、耳に残る。

「うん…」
「さっきは、何してたの」
「……現場のすぐ近くに、うちの社長が新しく作った図書館があって…もうすぐオープンだからって、そこに連れてってもらってて…」
「…二人っきりで?」
「うん…」

加瀬が、ぎしりと音を立てて、身体の向きを変えた。
まっすぐ正面に向けられていた視線が、莉子を見つめた。

「…そんな怯えんなよ」
「え…」

加瀬は自嘲気味の笑みを漏らして、ソファの背もたれにゆっくりと背中を預けた。
そのまま顔ごと天井に向けて、長い息を吐いた。

「…迷ってんの?それとも言い出せないだけ?」
「え…何…」
「先輩と付き合いたいけど、俺になんて言えばいいか分かんない?」
「ちがうよ…」

いつもまっすぐ自分を見てくれて、仕方なさそうに柔らかく笑ってくれる顔がこちらに向かないことが、こんなにも怖いなんて。

雨の音が強く室内に響いていた。
時折、ゴオオという風の唸る音も聞こえてきた。


「…俺は、莉子が決めたことに、従うよ」
「従うって、何…」

もう、自分はどっちでもいいってこと?
別れて、私が先輩と付き合っても、平気だってこと?


「…先輩にキスされた時、…どう思ったの」


私は、あの時、唇が触れたあの一瞬、頭によぎったのは、

透真を失うんじゃないかって、

怖くて。


「……っ」
「…泣くなよ…ごめんって…」


やっぱり、私は、先輩と付き合うことはできない。

あの時、仕事で責任を持つことが怖くて、先輩がいなくなっちゃうんじゃないかって怖くて、これから誰に頼ればいいのか、まだ一緒に仕事がしたくて、そんな子どもじみた、独りよがりの気持ちが溢れた。

そんな隙を作ったから、きっと、先輩にそれを見抜かれた。

先輩を好きになった理由が、あまりにも正解に見えてしまって、一人にしないでほしいという依存の気持ちを、きっと、あの一瞬、愛と錯覚した。

この人に必要とされたいという先輩への執着が、恋心と区別がつかなくなった。
だから、キスされると分かっても、拒否できなかった。

それが執着や依存であっても、あの一瞬だけ、私は先輩に強烈に惹かれたんだ。


「…もう聞かないから」

自分の涙が頬を伝って、顎の先で冷たく溜まっていく。
加瀬が涙を拭ってくれることはない。
きっとそれが加瀬の答えなのかもしれないと思うと、また涙が溢れた。

手のひらでそれを拭って、莉子は立ち上がった。
このまま加瀬に別れを告げられたりしたら、耐えられないと思った。

加瀬が自分のことを好きじゃないのかもしれないと思ったら、ひどく怖くて。
でも、今加瀬を好きだと言っていいわけがないと思った。

加瀬の態度は、一貫して莉子に触れないようにしている。
私に気を遣って話を振って、潔く身を引こうとしていて、それでもいいと言っている。

そんな透真に、私は好きだと言えない、怖い。

「今日、は…帰る…」
「…うん、分かった」

加瀬は静かにそう言った。
莉子はソファの横に置いていたバッグを勢いよく掴み、逃げるようにして玄関に向かった。

送るよと、加瀬が言わなかったことが答えのような気がして、考えたくなかった。
先延ばしにしたって、いいことなんかないのに。

扉を閉めるときに、玄関に残したままのリップが目に入った。

これを置いたまま帰ったら、また会う口実ができるだろうか。
そんな醜い考えがぽっかり浮かんで、手に取るのをやめた。

 
「あ、傘…」

コンビニでわざわざ買った傘を、玄関に置いてきてしまったことに気づいた。
でももう一度扉を開ける勇気は、到底なかった。
 
 
 
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