ひとつの秩序
 
 
 
 
雨の中走って、一番近くのコンビニまで行った。
それだけで、肩と頭はぐしょりと不快なほど水分を含んでいて、二本目の傘を買って、足早に家に戻った。
一歩踏み出すたびに、スニーカーに吸い込まれた水が、じゅわり、と冷たく指の隙間に溢れ出し、コンクリートを叩く自分の足音がひどく耳に響いた。

家に帰ってすぐお風呂に入り、髪の毛をタオルで拭きながら恐る恐るスマホを見ると、アプリの通知に紛れて、加瀬からのメッセージが一件入っていた。

【傘、忘れてったのに気付けなくてごめん。風邪引くなよ】

その言葉に、まだ優しくしてもらえているんだとホッとする。
加瀬なら、こう言うんじゃないかと心のどこかで思っていた。
そしてその優しさに、私は甘えている。

「先輩とキスしたけど透真が好きって、どうやって言うの…?」

今日は言えない、と逃げてきた重さが、今になってのしかかってくる。
加瀬はもう聞かないと、従うと言った。きっと加瀬からはもう何も言ってこない。
ならば私が動くしかない。

けれど、言葉を頭に浮かべても、矛盾と都合の良さにぶつかる。

「あの時はちょっと先輩に一瞬惹かれたけど、今は透真が好きって気づいた…?」

口に出すと更にその文章の気持ち悪さが増して、到底加瀬には伝えられない。
髪の毛をタオルでくしゃくしゃと揉むようにしながら、思いついたいくつかの言葉をぶつぶつと唱えてみるも、伝えられる文章にはならない。

【傘、ごめん。邪魔だと思うから、また取りに行ってもいい?】

これが精一杯の返しだと思って送ると、数分後に既読がついて、【いつでもいいよ】と返ってきた。少なくとも、自分が置いていった傘を置いておくことは許されているのだとホッとする。

いつでもいい、という言葉が別れまでの猶予期間に思えてしまって、少しでも先延ばしにしたいという考えが浮かんだ。

あの時の、玄関に置きっぱなしのリップを見て、加瀬は何を思うのだろう。

「キスしたこと…一回も怒られなかったな…」

考えれば考えるほど、加瀬の気持ちが離れているような気がして、気持ちが沈んでいく。雨足はますます強くなっていて、その現実を見たくなくて思わず部屋のテレビをつけた。

その後もぶつぶつと、加瀬になんと言うべきか言葉尻を変えつつ唱えてみるものの、上手い言葉は見つからなかった。

うまく言語化できない自分の能力が、こんなところで支障をきたすとは思っていなかったと、莉子は天を仰いだ。












「南さん、今日なんか…静かじゃないですか?」
「え、そう?」

週明けの火曜日、どこか体調が思わしくないのは雨のせいだ。
いつもよりなんとなく身体が重たくて、熱はないのだがだるくて鼻水も出て、まばたきをするたびに、眼球が裏側から圧迫されるような鈍い痛みがある。

よくある風邪の始まりの症状だと思いつつ、月曜日はトラブルの図面起こしや確認にも追われていて病院に行けていなかった。
それでも昼間にドラッグストアの風邪薬を飲んで、少しマシになった気はしていた。

「いや、なんか…いつももうちょっと、来い!みたいな顔してるのに」
「どんな顔…」
「なんか…図面に喧嘩売ってるみたいな」
「売ってないよ…」

小さく笑ったつもりだったのに、自分でも分かるくらい力が入っていなかった。
夏目はそれを見て、少しだけ困ったように眉を寄せる。

「体調悪いですか?」
「うーん…まぁ、ちょっとだけ。全然、頭入ってこなくて」
「あっ、僕が土曜日ミスしたから…休みの日に片倉さんにも南さんにも迷惑かけちゃって…!」
「えー全然関係ないよ。夏目くんの提案は良かったし、最後に確認しなきゃいけなかった私のミスだよ」

月曜、夏目にどこまでちゃんと伝えるべきか迷っていた莉子に、片倉が「ありのまま伝えな」と言った。図書館で縋るように伝えてきた顔ではなく、いつもの「片倉先輩」の顔だった。

「でも、」と戸惑う莉子に、「事実は事実。そうやって成長していくから」とだけ告げて、莉子の頭にポンと一瞬だけ手を乗せて、会議に行った。

その言葉通り伝えると、夏目は目に見えて分かるほど落ち込み、莉子に謝った。会議が終わるのを出待ちのようにして待ち構えて片倉にも謝罪しており、それに驚く片倉が少しだけ面白かった。


「南さんがOK出したのが最終判断なのは分かってますけど、その前の判断材料出してるの、僕なんで…ちゃんと見てないのに、それ言ったのは、普通にミスです」
「…うん、私も夏目くんもミス!それで今回はおしまーい」
「ありがとうございます…」

夏目が眉を下げてそう言った。
莉子は夏目にまで心配されていてはいけない、と無理やり笑みを作り、仕事に戻った。


それでも夕方、定時まであと一時間ほど。
仕事をしていても頭は加瀬と片倉のことで渦巻いていて、今日は早めに切り上げて病院に行こうか迷っていると、シェアスペースにいる静を見つけ、莉子は立ち上がった。


「静さん…」
「うわっ、ちょっと、もっと分かりやすく出てきてよ」

莉子は会社のシェアスペースでコーヒーを淹れている静の背後から声をかけた。
飛び上がるようにした静が、莉子の顔を見て眉を顰めた。

「そんなの無理です…」
「今度は何?あんた悩むの好きねー」
「好きじゃないですよぅ…」

莉子から漏れる声はか細く、静が仕方なさそうにため息をついた。

「飲みに行く?」

静の言葉に迷いつつ、熱もないし話を聞いて欲しいと思った莉子が「行きます…」と返事をすると、静はニヤリと笑って言った。

「よし、じゃあ定時で終わらすわよ」
「はいっ」

その返事を聞いて、静は莉子の頭に手を乗せた。
片倉とも加瀬とも違うその柔らかさが、今の莉子には染みた。


 
 
 
 
 
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