ひとつの秩序
「私、海老の唐揚げ、イカの一夜干し、カマンベールチーズの燻製が食べたい。南は?」
「出汁巻き玉子と…蒸したてお野菜ってやつ、締めはうどんがいいです…」
莉子の言葉に静は、「まだ食欲ないの?」と聞いた。
気を遣わせたくなくて曖昧に頷いた莉子に、ため息をついて静が注文した。
移動は少ないほうがいいだろうと莉子が選んだ店は、会社から駅までの道を少し逸れたところにある、新しくできた和食屋だった。
店の雰囲気も良く、以前から気になっていたところだったのと、今はニンニクたっぷりのパスタなどは受け付けないと思ったからだ。
「で?今度は何?まずは経緯と概要から」
「ううっ、プレゼンみたい…」
すぐに飲み物が到着して、ビールをごくごくと飲みながら静が言った。
誘ったからにはアルコールを頼んだほうがいいかと思って注文したカシスオレンジをちびちびと飲みながら先日の話をした。
「はーっ、片倉、なんて不憫な愛…可哀想になってきた」
「すみません…」
「いや私はメシウマだけど。でも、もう答え出たんでしょ?片倉を振って、彼氏のとこ行けば?」
「でも、でも、もう好かれてないかもしれない…全然態度が違うんですよ…」
甘くてジュースみたいなカクテルは、普段あまり頼まない分飲みやすかった。いつの間にか空になったグラスを見て、静が店員を呼びながら呆れた視線を莉子に送る。
「そりゃ、浮気しちゃったもんねー」
「グハッ」
「やってなくても浮気だからね?裏切りとか言って綺麗にまとめてるけど、普通に浮気だから」
「私の味方じゃないんですか静さん…」
「そりゃ、彼氏からしたらそっちに気持ちが流れたと思って当然じゃない?片倉に彼女ができたタイミングで、ダメもとで、きっと最後の勝負だったはずだし」
静の容赦ない言葉に莉子は机に突っ伏した。
「同じものでいい?」と聞かれて頷いてしまった、二杯目のお酒のグラスが運ばれてきて、思わず目の前のアルコールに逃げる。
「でも、なんで彼氏のことが好きなのかって、上手く言えないんですよ…このままだとなんて伝えていいか分かんなくて…」
莉子の言葉に、静は「うーん」と少し考えた後に言った。
「南さ、片倉の好きだった理由がはっきりしすぎてて、好きには必ず理由があるって思ってない?」
「え?」
莉子が目の前のグラスから顔を上げると、静は二杯目のビールを飲み干しているところだった。
「前、彼氏がいなくなりそうだったから思わず身体が動いたって言ってたじゃん。それって消極的な理由じゃなくて、すっごい深い愛だと思うけど」
「そうなんですか…?」
「片倉が好きだった時の気持ちって、要するに、美術館の絵を鑑賞して評価してるようなものなのよ。美しい、色使いが綺麗、ここのタッチが素敵、みたいな。それが憧れとか尊敬とかなわけ」
「はい…」
静はだし巻き卵をつまみながら、「なんて言えばいいのかなー」と斜め上を見ながら考えている。莉子は思わず身を乗り出して、静の言葉を待った。
「片倉への気持ちが理想なら、彼氏への気持ちは本能っていうか」
「本能…」
「彼氏がいなくなるのが耐えられないって、もう自分が生きてる世界じゃん。形はないし言語化しにくいけど、失いたくないって生存本能なわけで、めちゃくちゃ重い執着なんじゃない?」
静の言葉が、ものすごい質量となって自分を取り囲んでいる。
本能で、重い執着。これが、加瀬に対して思っていたことなのか。
「なんていうか彼氏は、酸素みたいな?普段はその存在を意識もしないし、わざわざ評価もしない。でも、いないと息ができない」
「さん、そ…」
その例えが、自分の中にすんなりと落ちてきて、じわりと広がっていく。
喉の奥にぺたりと残るカシスオレンジの甘さと、倦怠感。
それらが混ざり合って、視界がぐにゃりと歪むような錯覚に陥る。
加瀬がいなくなってしまいそうだと思って、思わずあの広い背中に抱きついた、三月の、肌寒い夜。
選ぶとか、選ばないとか、そんな土俵には、もしかしたら最初からいなかったのかもしれない。
何となくずっとそばにいて、何となく話し相手になってくれていて、居心地が良くて、いなくなる想像なんてしたことがなかった。
別に、親友という位置にいたわけでもなく、それなりにいる男友達の一人、という位置づけだったのに。
「それって、すっごい業の深い愛よ」
静は、ふ、と笑みを浮かべて、「片倉なんか足元にも及ばないくらいね」と言った。
その優しさが当たり前だった。
加瀬は、好きだと言いながら何だかつらそうで、ずっと罪悪感と戦っているみたいだった。
「ごめん」と言いながら、気持ちを伝えてきた加瀬が、自分でその「ごめん」に押しつぶされてしまいそうで、そのうち、その重さに耐えられなくなっていきそうで、そんな加瀬を見たくなかった。
「私あの時…透真の気持ちを、…受け止めたいって思ったんですよね…」
「ふぅん?」
あの日、私は、先輩と幸せになることよりも、透真が日常からいなくなることの方が耐えられなかった。だから透真を選んだ。
「好きだけど…好きだからっていうか…必要なのかもしれない」
「…《《元》》友達の、執念の勝利ね」
莉子をどこまでも優先して、それが当然みたいな顔をして、きっとずっとそうやって隣にいてくれた加瀬のしたいことを、叶えたいと思った。
それがきっと、気持ちの始まりだった。
「でも、もう好きじゃないかもしれないです…私のこと…」
「可愛いわねーあんた。いつまでもそうやって私の前でグチグチ悩んでていいのよ」
「だって浮気したから…」
「そう!南がしたことは浮気!良くない!まぁ飲んじゃいなー!」
「はいぃ」
静に促され、自分のしたことを改めて自覚した莉子は勢いのままにグラスを煽った。
そういえば体調悪いんだったと頭の端によぎった気もするが、それすらも流れてしまえばいいと思った。
そうして後先考えずにアルコールを身体に入れた結果、
「ゴホッ、うぅ…」
「やば、飲ませすぎた」
「…久我?と、南?…何してんの…?」
聞き慣れた、けれど今は一番聞きたくない低い声が聞こえた。
目の前にはアスファルトしか映っていない。あれ、そういえば、さっき静さんに抱えられてお会計してもらったんだっけ…お金って、払ったっけ…。
莉子は重たい瞼を押し上げようとしたが、焦点が合わない。
なんだか目の前に先輩がいる気がするのは、気のせいだろうか。
そんなことを思いながら、目を閉じた。