ひとつの秩序
直帰でもよかったが、頭の中を仕事で埋めたくて会社に戻り、仕事をした。
キリがついたと思って会社を出ると、もう二十一時を過ぎていた。
ため息をつきながら駅に向かっていると、「南ー!」とどこか聞き慣れた声と名前が少し遠くから聞こえ、そちらに目をやると、静と莉子が、最近できて気になっていた和食屋から出てくるところだった。
一緒にいたのか、と思ってそのまま見ていると、何やら静の身体に莉子が寄りかかっているのが見えて、なんだか様子がおかしいと思って、大通りから逸れてそちらに向かった。
「あっ、ちょうどいいところに!ちょっと手貸して」
「なに?え?南寝てんの?うわ、酒くさっ」
普段と何も変わらない静だったが近寄ると酒の匂いがして、大体の状況を把握する。
「平日から後輩を酒で潰すなよ…明日どうすんの」
「カクテル三杯くらいしか飲んでなかったのよ、いつもこんなの余裕じゃん」
「南、カクテル酔いやすいよ。前潰れた時もそれ飲んでたし」
静に押し付けられるようにして莉子の身体を預けられ、意識しないようにしていたその匂いが近くて、一瞬目の奥がくらりとする。
静から引き取った莉子の身体は、アルコールのせいか、微かに熱を持っていた。
「あーそうなの?しまった止めれば良かった」
「なんか昨日から鼻かんでたし、体調悪かったんじゃないの」
「うわっ、めっちゃ見てるじゃん」
「…席が隣だからだよ」
「嘘、あんた避けてたじゃん。わざとらしく会議室とってそっちで仕事してさ」
静の言葉に思わず言葉が詰まる。
こいつのこういうところが嫌なんだよなぁ、と思う気持ちが顔に出たのか、静はにやりと笑いながら言った。
「とりあえず、南送っていってくんない?」
「は?俺が?」
「私反対方向だし、か細いから南を支えられないんだもん」
静は平然と「方向一緒でしょ?」と合理的判断だという顔で言ってのける。
意識があるようでないのか、全体重をかけられているわけではないが、立っているのがやっとな様子の好きな女を預けられるのは二回目で、なんでこんな苦行ばかりしないといけないんだという気持ちになる。
「…全部聞いてるんでしょ?てか聞き出してるんでしょ?いいの?俺に預けて」
「人聞き悪ーい、今日は南から誘ってきたんだし」
静は手に持ったままだった財布をトートバッグに仕舞いながら鼻で笑った。
「流石に酔ってる南をどうこうするほど、人でなしじゃないと思ってるわよ」
「…信頼してくれてどーも」
莉子のバッグを持って、「とりあえずタクシー拾お」と大通りに出ていく静を追って、ゆっくり莉子を支えながら、先ほど来た道を戻った。
ふわりと香るシャンプーの香りから逃れたくて、必死に顔を背けた。
「なんで、南の好意に気づいてて、他で彼女作ったの?」
「…そうすれば南が諦めると思ったからだよ」
「ふーん?その時に手出してれば、今頃彼氏だったのにね?」
「…それは俺が一番後悔してる」
片倉の言葉に、静は微かに笑った。
目の前を歩く静の髪の毛が風に靡いていくのを見ながら、右側の重みから意識を逸らす。
どうせ、俺は「憧れで完璧な片倉先輩」から逃れられないんだ。
初めての後輩に張り切って、自分で用意して被った仮面が、まさかこんなに剥がれないとは思ってもいなかった。それほどまでに、長く、一緒に仕事をして、感性と思想を、共有した。
無防備なその隙を突いて揺さぶったところで、正論と理想論で落ちてこないことくらい分かっていたけれど。
「展示室、見たわよ」
「ああ…」
あっという間に大通りに出て、とりあえずバス停のベンチの端に莉子を座らせた。
静が隣に座り、莉子の頭をそちらにもたれさせた。
立ち上がってタクシーを捕まえようとすると、背後から静の声が聞こえた。
「綺麗だった。計算し尽くされてるのに、それを感じさせなくて、カーブが綺麗で、視線が引っかかる場所がなくて…小さな庭は室内と外の境界が曖昧で、空間の一部みたいだった。床に落ちる光が時間で変わって、展示よりも光の方に目を奪われる瞬間がある」
「…さすが」
そうだよ、計算し尽くして、でもそれが分からないように、ずっとしたたかに振る舞ってきたんだ。それが俺で、強みで、弱さだ。
手前の信号が赤を示していて、目の前の道路には右折してくる車がたまに奥の車線を通過していく。
「お疲れ」
「…ありがと」
頭の中でどれだけ計算したって、思い通りにならないものはならなかった。
きっと、素直にならなかった自分へのツケが、回ってきたんだろう。
信号が変わって、目の前に無数のライトが光っては目の前を通過していく。数台見送ったところで空車のタクシーを見つけて手を挙げると、目の前の路肩に停まった。
静と協力してタクシーの後部座席に莉子を詰め込み、荷物も受け取る。
「じゃあ、南よろしくね。明日ってこの子休んでも大丈夫そう?」
「うん、会議は入ってなかったと思うし何とかなるよ。どうにかする」
「よろしくね。変なことすんなよ」
ニヤリと笑って顔を指され、思わず苦笑する。
こんな時もいつも通りな久我に少しだけ助けられたような気がして悔しい。
「しないよ」
そう言ってタクシーに乗り込み、運転手に合図をしてドアが閉まった。
規則的なウィンカーの音だけが車内を満たす。
歩道から軽く手を振る静に頷き、「都立大学駅まで」と言った。
さぁ、彼氏の連絡先はもちろん知らないし、南の家も知らないけど、このあとはどうしようか?
とりあえず、窓側に傾けたにもかかわらず、いつの間にか右肩に乗せられている頭は、そのままにしておこう。