ひとつの秩序
「南、起きて」
「…ぅえ?」
目を開けると電気のついたタクシーで、片倉が目の前のモニターにスマホをかざしているところだった。
決済音が聞こえた後、事務的な「ありがとうございましたー」という運転手の声が聞こえて、車のドアがふわりと開く。
「降りるよ、おいで」
「えっ、あっ、」
片倉が領収書を受け取ると、ドアから降りて手招きをした。
慌てて降りると、見覚えのある、いつもの最寄り駅に着いていた。
「すっごい寝てたから、とりあえず南の最寄り駅に来た」
「え、あの、私…?」
「体調悪かった?そんな時に酒飲んだら酔いが回るに決まってるでしょ」
「はい…すいません…何で知って、ていうか、何で先輩が…?」
目の前のタクシーが発車していき、片倉がそばにあった自販機で水を買って、莉子に渡した。混乱したままお礼を言い、手渡されたペットボトルのキャップを捻ると、パキリと乾いた音が夜の駅前に響いた。
冷たい液体が喉を通っていき、だんだんと思考が冴えてくる。
「ちょうど帰ろうとしたら、久我と南が店から出てきて、南が潰れてたの。で、方向一緒だからって、俺が送ってきた」
「えっ、す、すみません、私、また先輩にご迷惑を…!」
頭の奥がガンガンと鳴り響いていて、水を飲んだことで喉の痛みが鮮明に感じて、確実に風邪が悪化していると分かる。驚きと夜風ですっかり頭は冴え、片倉と気まずかったことも忘れて莉子は何度も謝罪の言葉を口にした。
「いいよ、とりあえずそんな状態だと、絶対明日は熱出るよ。休みなね」
「えっ、でも」
「いつも言ってるでしょ、体調悪い時にいいものは作れません。明日は会議もないでしょ?俺は明日一日社内だし、夏目の確認は俺がするから」
「…私…本当にダメダメで…」
駅の壁にもたれていた片倉が、「家どっち?送るから」と言いながら笑った。仕方なさそうに笑う片倉を久しぶりに見た気がして、どこかホッとした気持ちになった。
「さすがにそこまでは申し訳ないです…!」
「いや、ここまで来たし夜も遅いし。いいよ、俺んちそう遠くないから」
どうしようと黙る莉子を見て、「家に上がろうとか考えてないから安心して」と片倉が言った。いたたまれなくなって、自分から思わず情けない声が出る。
「そんなこと…考えてないですよ…」
「そう?でも南はもうちょっと男を疑った方がいいと思うけどね」
で、どっち?と片倉が言い、莉子は「こっちです…」と指してゆっくりと歩いた。その隣を片倉が歩くが、その距離は、人一人分ほど空いていた。
「で、返事は決まった?」
「あ…私…先輩とは…お付き合い…は、できないです…」
「うん、そっか」
あまりにも軽い調子で返され、必死に伝えた自分の言葉たちが宙に浮いたかのような気持ちになり、莉子は思わず片倉を見上げた。
「ふっ、なんて顔してんの」
「え…」
「分かってたよ、何年見てきたと思ってんの」
分かってた?先輩と付き合えないって、この間私はちゃんと気づいたばかりなのに?今さっき、静さんに言語化されたばかりなのに?
「…ちょっと、魔が差したっていうか…最後の足掻きっていうか…情緒的になったっていうか」
莉子の顔を見て、視線を前に向けた片倉は、穏やかに言った。
生温かい風が、頬を撫でては抜けていく。
そういえば、先輩に彼女ができたと知ったのは、去年の七月だった。
あの絶望から一年経って、今こんなことになっているなんて、思いもしなかった。
「まぁ、元はと言えば俺が原因だったから、自業自得なんだけど…」
「え…?」
「彼氏が好きなんでしょ?何で好きか、あの時より理由は増えた?」
「あ…理由…理由は…なくて…さっき、静さんに…酸素みたいだって言われて、そうだなって思いました…」
片倉は歩きながら笑みを漏らした。
その歩みはゆっくりで、いつもの道なのに隣に片倉がいることが違和感で、でもそれがとても安心した。
「酸素ね、さすが久我。そりゃ必要だね。勝てないわ、憧れは」
「でも、でも、都合いいかもしれないんですけど、聞いてくれますか」
莉子の言葉に片倉は歩みを止めて、穏やかに笑った。「どうぞ」と言うその唇が、緩やかにカーブを描いていた。
「私、先輩のことずっと好きで、依存してて、憧れてて、追いつきたくて、もっと教えて欲しいし、先輩の知識も感性ももっと知りたいし、先輩の作るものがたまらなく好きで、ずっとそれを見たいです…!」
片倉は柔らかい笑みを浮かべてそれを聞いていた。
「…建築を志すものとして、この上ない褒め言葉だね」
「都合良くて、すみません…」
「いいよ、人間なんてそんなものだからね」
呆気なく自分の気持ちが受け入れられ、あまりにもあっさりした様子の片倉に、莉子は少しだけ呆然とする。
「大丈夫、ずっと見てて、俺の背中。南の作るもの、俺も見たい。俺が想像できないようなデザインとか空間作って、いつか見せて」
「え…」
「その時まで、前にいてあげるから。大丈夫、ゆっくり諦めるよ」
目の前の街灯が、音を立てている。
ぬるい空気がまとわりついているのに、夜だからか不快ではない。
「俺も、南が見てくれてたら、頑張れるよ」
「…せんぱい」
「ずっと憧れでいなきゃいけないからね。プレッシャーだなぁ」
「…あり、がとうございます…っ」
目の奥がツンとして、でも必死に上を向いて堪えた。
狭い夜空は曇っていて、星は一つも見えない。
「引き抜きがもしあったら、南も連れて行ってあげるね」
「えっ」
「だから、大丈夫。俺へは何も変わらなくていいから。俺も今まで通りにできるし」
「…私、先輩がいたから、ここまでやって来れて…本当に…」
「待って、辞めるみたいな雰囲気になってる。聞いてた?俺の話」
そう言って片倉が笑って、歩き出した。
街灯に照らされた空間に一瞬だけ入って、影が濃く長く伸びた。
最後まで、助けられて、フォローされて、それが情けなくて申し訳なくて、でもたまらなくそれに甘えたくて。
どうしたらいいか分からない時に、いつも助けてくれて、まるでヒーローみたいだと思った。だから、きっと、好きになった。
「…最後にハグしていい?先輩として」
「……はい…」
莉子の返事を待って、片倉がゆっくりと距離を詰めた。
着ているシャツの、少し硬いリネンの生地が莉子の頬に触れた。
背中に回された腕の、加瀬とは違う、しなやかな圧を背中に感じて、莉子は目を閉じた。
「…ありがとう、好きだったよ」
「……私も、…好きでした…」