ひとつの秩序
 
 
 
 
 

「…身体、熱いよ。絶対熱あるけど、大丈夫?」
「大丈夫です…」

数秒間だけ、触れていた。
背中に回った手が優しくて、この人を傷つけた気持ちと、何か大切なものを失ったような気持ちが押し寄せてきて、莉子は片倉の服の裾を掴んでいた。

離れると、片倉がそう言って、心配そうに莉子を見つめた。
その顔が、いつもの「片倉先輩」で、たまらなく寂しかった。

「彼氏とはまだ喧嘩したまま?来てもらったら?」
「いや…はい…大丈夫です、明日病院行きますし…」
「怒られてんの?口も聞いてもらえないとか?それなら俺も話が変わってくるけど」

片倉が悪戯っぽく笑ってそう言った。
完全に冗談のトーンで言われたその言葉に、気持ちが少しだけ軽くなり、莉子も笑みが漏れた。

「なんか…もう好かれてないかもしれないっていうか…」
「ええ?」
「態度が…先輩と付き合いたいのに言い出せないって思われてて…それならそれに従うみたいな…」

再び歩き始め、家の前にたどり着いた。「ここです」と送ってくれたお礼を言うと、片倉は少しニヤリと笑って莉子に言った。

「ねぇ、彼氏に電話させて」
「えっ!?」
「南のスマホで。最後に後輩の恋に発破かけてあげるよ」
「えっ、ダメですダメですっ」

片倉は楽しいことを思いついた子どものような顔をして、莉子に手を差し出している。
そんなことしたら、今度こそ別れようって言われるかもしれない。そんな思いで首を振っていると、片倉が苦笑しながら言った。

「あのねー、俺、あの彼氏の考えてることすごい分かるよ、ムカつくくらいに」
「え?」
「いいから。変なこと言わないし。絶対解決できるから、俺に任せなって」
「ええ…?本当ですか…?」

片倉の顔があまりにも真面目で、このとんでもない提案が一番ベストだみたいな顔をしていて、その顔の説得力に今まで何度も助けられてきたからだろうか。

「じゃないと、俺も諦めきれない。いいの?今から俺ん家でも行く?」
「ええっ」
「ほら、早く」

片倉の圧と言葉に何も言えなくなり、渋々加瀬の連絡先を表示させたスマホを渡した。
家の目の前の電柱にもたれながら、片倉はどことなくウキウキした顔でそれを受け取り、迷いなく通話ボタンを押して耳に当てた。

出なかったらどうしよう、いやむしろ、出ないでほしい。でもあとでかけ直される方が、もっとどうしよう。

そんな莉子のぐちゃぐちゃの願いを他所に、「あ、もしもし加瀬くんー?」と軽快な声が隣から聞こえた。

「片倉です。その節はどうもー。……ふ、違うよー。南がね、体調悪いのに酒飲んで、潰れてるの。熱もあるっぽいよ、そう、さっきねーぎゅっとしたら熱かった」
「っ!?」
「ふっ、それはご想像にお任せするけどー、今ね南の家の前にいるの。このまま上がり込んで介抱してもいいんだけど、一応まだ加瀬くんが彼氏だからさー、連絡してあげた」

途中とんでもない暴露をされ、思わず片倉の腕を引くが、それを一瞥して何事もなかったかのように電話を続ける声に、心臓が張り裂けそうだ。
加瀬はどんな声で、どんな気持ちでこれを聞いているんだろう。

「来る?来ないなら俺が上がるしー、…………ふ、南はねー今顔赤くして、俺の腕に手回してる。可愛いよねー、南って」
「っ!!」

その言葉に、莉子がつい飛び跳ねるようにしてその手を離すと、片倉は楽しそうに笑った。

「……ふぅん?そう。彼氏がそう言うんなら仕方ないね。じゃあ部屋まで送り届けて、加瀬くんが来るまでは部屋に残ろうかな。…早く来ないと知らないよ?」

もう、これ以上は何も言ってほしくない。
俺に任せておけば大丈夫なんて、全然そんなことなかった。
莉子が必死に首を振って合図を送ると、それを見た片倉がため息をこぼして言った。

「あ、気になってたんだけどさ、加瀬くんはいつから南が好きだったの?」
「!?」
「…………ふっ、そっか。じゃあ、早く来てねー」

そう言って通話終了ボタンを押し、「はい」と莉子にスマホを返した。
加瀬とのトーク画面がスマホの液晶に虚しく残り、とんでもないことになったのではないかと冷や汗が止まらない。

「来るって。よかったね。明日は休んでね。明後日来れそうならその時に休暇提出しておいて」
「……絶対解決できるって言ったじゃないですか…」
「うん、できると思うよ?部屋で待ってな」
「絶対嫌われたじゃないですか……」

莉子がその場にしゃがみ込むと、ふわりと目眩がする。
夢中になっていたけれど、頭の奥の痛みはひどくなる一方だった。

「嫌われてないよ、大丈夫。彼氏は南のこと普通にまだ好きだし怒ってないから、その前提で話をしてみな」
「…何でそんなこと分かるんですか…」
「んー、多分、俺と加瀬くんって似てると思うから?」
「どこがですか…」

片倉は笑って莉子の手を持って引き上げた。
ひんやりして気持ちよかったその手はすぐに離れて、莉子の背中をぽんと優しく叩いた。

「しつこいとこ」

足が自然に一歩前に出て、片倉はそんな莉子に手を振った。

「ほら、体調悪化してるでしょ?早く家入りな。俺も帰るし」
「…はい…」

流石に家に上がると電話で言っていたのはハッタリだったらしい。それに少しだけ安堵の気持ちも湧きつつ、目の奥に響く痛みを堪えながら足を進める。

夏の夜の風が、ふわりと吹いて片倉の髪の毛が揺れるのが見えた。
真ん中で分けられた前髪が、その表情を覆い隠した。

「…じゃあ、おやすみ」
「……あの…ありがとうございました…」

片倉はいつものように穏やかに笑って、莉子に手を振って、来た方向に戻っていった。家に入るのを見送られはしない。
片倉の背中を見送る莉子の視界で、街灯の光がじわじわと滲んで広がっていく。
振り返らないその背中が小さくなったのを見届けて、家に入った。


家のドアを開けると、さっきまで張り詰めていた気持ちが一気に緩んで、目の前が急にクラクラとした。お酒のせいなのか風邪のせいなのか、もうよく分からない。

そういえば夜の薬は飲んでいなかった気がする、とバッグの中の薬を一錠、水で流し込んでから気づく。あれ?お酒飲んだ後って、薬って飲んじゃダメなんじゃなかったっけ?

思考もあちこちに散って、目の前がチカチカする。
身体が熱いのは気のせいではない。ああ、玄関の鍵開けておかなきゃ。透真が来てくれるって、こんな遅い時間に、明日も仕事なのに、透真にまで迷惑をかけて申し訳ない。

まばたきをするたびに、熱を持った眼球が裏側からドクドクと脈打っている。

そんなことを考えながら玄関の鍵を開けたり、化粧を落としたり、部屋着に着替えたりとゆっくり動いていると、ピンポーン、とインターホンが鳴った。


ああ、加瀬が、来てくれたから、もう安心だ。


ふらつく足元でモニターを覗くと、加瀬の姿が映っていた。
開錠ボタンを押した瞬間、指先から力が抜け、壁のクロスに爪が立てられる不快な音がした。
背中を伝う壁の冷たさが一瞬だけ心地よく感じられ、そのまま重力に従って身体が沈んでいく。

視界の端で、玄関のフローリングがゆっくりと傾き、暗転していく意識の向こう側で、加瀬がドアを開ける音だけが遠くで響いた。
 
 
もしかしたら、身勝手な私の気持ち、受け入れてくれないかもしれない。
そしたら、最後まで迷惑かけちゃって、ごめん。
 
 


 
 
 
 
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