ひとつの秩序
多分、俺の家に連れ込むこともできた。
計算して手を回して、上手く生きてきたはずだったのに、あの時なぜ、タクシー運転手には南の駅を伝えたんだろう。
きっと家に連れ込んで、そのまま流し切ることなんかできたはずだった。
南は、目の前の感情で生きている。
言語化が苦手で、自分でも自分の感情がよく分かっていない。
だから、本人がそれに気づいてしまう前に流してしまいたかった。
きっと最後まで流すこともできたはずだし、そうしたらじわじわと、気持ちも引っ張れたと思う。後戻りができなくなった南は、きっと罪悪感で彼氏と別れただろう。
俺の望む、温室に囲うこともできた。
でもそうしなかったのは、俺が、俺自身が一番、あの花を壊したくなかったから。
愛しているから手を出さなかったなんて、崇高な動機をつけたいとは思わない。
五年前、右も左も分からないような女の子の可能性に気づいて、大切に肥料をやって、育ててきて、その花を咲かせたのは自分だから。
南という才能を育てたという自負が、俺にとっての最大の悦びでもあった。
それが俺の、業であり、矜持であり、愛であり、プライド。
来た道は、先ほどと変わらず静かで、いつもは考えないような深いところまで思考が届いていく。
とても長く感じた行きとは違って、駅に着くのは早かった。
ちょうど通りかかったタクシーを呼び止め、今度は一人で車内に乗り込む。
電車だと少し遠回りしなければいけないが、タクシーだと十分ほどで自宅に着く。
すぐに行けるのに、気軽には行けない。
その距離が全てだったような気がして、口元に少しだけ笑みが浮かんだ。
真っ赤な顔をしていた彼女は、大丈夫だろうか。
電話での焦り方からすると、きっと彼氏は急いで家に行くだろうけれど。
「…薬…」
「はい?」
「いえ、なんでも」
思わず声に出した言葉に運転手が反応して、訂正する。
行きのタクシーの中でバッグから風邪薬が入ってるのが見えたけど、あれを飲みながら久我との飲みに行ったのだろうか?それならアルコールの回りも早いはずだ。
まさか、帰宅してから飲んでないよな?さすがにそんなことはしないよな?
スマホをポケットから取り出しかけて、やめる。
もうそこはプライベートで、俺の入る場所ではないだろうから、きっと彼氏がなんとかするだろう。市販薬なら、そこまで強い効き目でもないだろうし。
驚くほど穏やかな気持ちでこの恋を終えられたことに、自分が一番驚いている。
自分の執着と執念の底が見えなくて、静謐な狂気に自分で自分が嫌になった。
なりふりかまわないなんて、今まで思ったことがあっただろうか。
「……」
このまま南の記憶に、しんどかった男として残り続けるくらいなら、俺はあの純粋で輝いた視線を、永遠に感じていたかった。
憧れを憧れのままにすることが、一番綺麗に終われるような気がしたからか。
すごい、といつも褒めてくれる君の視線に、俺はずっと救われていたよ。
いつの間にかそれを強欲に欲しがって、無理やり手を出してしまったけれど、最後は協力してあげたんだから、それくらいは許されるだろう。
悪役を買って出たなんてそんな綺麗事ではない。
普通に俺は性格が悪いから、最後に、ちょっと意地悪をしてやろうと思っただけ。
ムカつく君に、最後に爽快な気持ちにさせてもらったから、満足したよ。
窓の外、夜の街が流動的な光の束となって通り過ぎていく。
なんとなく頭の中に、南と一緒に練り上げた図面や、あの真っ白な展示室の残像が重なる。
まぁ、でも、
きっと逆立ちしたって、南の感性は、君には理解できない。
これから、南はどんどん成長して、きっとすごいものを作り上げていくよ。
その時に一番に相談されて、一番にそれを褒めて、一番に分かってあげられるのは、俺だから。
それは、酸素であろうと絶対に入り込めない、まるで宇宙のような、俺と南だけの、聖域。
私生活は独り占めするんだから、そういう愛くらいは、俺がずっと貰っていくよ。
「着きました」
「ありがとうございます」
支払いをしてタクシーを出ると、むわりとした熱気が自分を包んだ。
路地裏に溜まった、夜の湿った熱気がじっとりと肌にまとわりつく。
先ほどまでは感じなかったそれに、自分がどれだけ必死だったかを自覚して嫌になる。
一年前に、戻れたらいいのに。
そんな気持ちが湧いてきて、それがすんなり脳内に言葉として思い浮かんでしまう自分の性格に嫌気がさしながら、家に戻った。
俺が育てた、美しい花。
きっとずっと、俺の最高傑作。
その花弁がほどけていくのを、俺は死ぬまで見ていたい。