ひとつの秩序
 
 
 
 
 
目が覚めるとベッドに寝ていて、少しだけ部屋は明るかった。
閉じたカーテンからうっすらと差し込む光が、明け方なのだと分かる。

ぼんやりと時計に視線を送ると、まだ朝の五時だった。
頭の奥がぐしゃぐしゃに掻き回されているように痛くて、起き上がりたくないほど重い身体は、症状が悪化していると分かる。

「あれ…」

そういえば、透真が来てくれていたんじゃなかったか?
あれ?私、ベッドまで行ったっけ?ていうか、透真と話したっけ?え?どうなったんだっけ?

起き上がろうと腕に力を入れると、シーツに身体が吸い付いているかのような粘りつく重だるさが全身を支配していた。

力を入れて身体を起こすと、静かな部屋に軽い夏用の布団がかさりと音を立てた。
あたりを見回すと、加瀬がベッド横の床の上で寝ていた。
すうすうと寝息を立てている加瀬の頭の下には、ソファに置いてあるクッションが敷かれていて、その身体にはブランケットがくしゃりと乱雑にかけてあった。

つけた覚えのないクーラーが稼働していて、音もなく風を吐き出していた。
枕元には水の入ったペットボトルが置いてあって、音を立てないように飲んだ。

そういえば、加瀬が来てくれたと思った瞬間に気が抜けて、眠くなって、なんだかいろんなことが限界で、安心して目を閉じた気がする。

そのまま、きっとベッドに運んでくれて、そばについててくれたんだ。一晩中。


喉を潤して、なんとなく加瀬の寝顔を見つめる。
そういえば、この顔を見るのも久しぶりだ。
付き合ってまだ三ヶ月ほどなのに、寝顔を見るのが久しぶりと思うほど、一緒に過ごしてきたんだ。

ベッドに入って眠って欲しかったが、加瀬がどういう気持ちなのかも分からないし、風邪を移したくなかった。再び音を立てないようにベッドに潜り、、目を閉じた。











「莉子、起きて。病院の予約取ったから、行くぞ」
「ん…」

再び目を覚ますと、ベッド脇に立った加瀬が、莉子の顔を覗き込んでいた。
その手には体温計と水の入ったペットボトルが握られていた。

「よく寝てたな。とりあえず体温測って。近くのクリニックの予約、ネットで取ったから。あと十五分したら出るぞ」
「透真…」
「はい、体温計。水も飲んで」

渡されるものを流れるように受け取り、言われるがままに体温計を脇に挟み、水を飲んだ。加瀬に話しかけなければと思うが、枕の横にぺたりと剥がれて落ちていたジェルシートを持ってリビングに消えていってしまった。

「測った?何度?」
「八度七分…」
「うわ、気持ち悪さは?吐きそう?」
「大丈夫…」
「じゃあとりあえず何か腹に入れて、はいりんご」

忙しなく世話をされ、話を切り出すどころではない気がする。
時計を見るともうすぐ九時になろうとしていて、ぼうっとしていた莉子が慌てて声を上げる。

「透真、仕事は!?」
「休んだよ。一個だけでも食べて、病院行くから」
「休んだ!?なんで!?」
「なんでって、莉子、床にぶっ倒れてたんだぞ?会社とかどうでもいいし」

りんごを口に詰め込まれるようにして入れられ、すぐに器が回収されていく。
まるで小学生の時に熱を出した時のお母さんみたいだ。そんなことを思うが、口の中の塊を咀嚼しながらでは、うまく何も言葉にならない。

「ほら、もう予約時間になるから。立てる?」
「立てる…ゲホッ」
「はい、マスク」
「ありがとう…」

付き合う前、自分が熱を出した時は無頓着だったくせに。
体温計も家になかった男が、こうも知識豊富に世話をしてくれることが違和感だが、もしかしたら小さい頃も、二人いる妹にもこんな感じだったのかもしれないと、ぼんやりと思った。

「着替える?パーカー羽織ってそのまま行く?」
「このまま行く…」
「了解、お薬手帳は?」
「あ、こっちの引き出し…透真、お母さんみたい…」
「なんでもいいよ、とにかく早く行くぞ」

ついに思っていたことが口から滑り落ちるが、それどころじゃないとばかりに相手にされなかった。
普段あまり莉子を急かすことはしない加瀬だが、今日はやけに焦っているような気がして、ぼんやりとした頭ではどこか現実味がなかった。

「どうしたの…、そんなに急いで」
「だから、倒れてたんだぞ?しかも酒飲んで、その上で薬も飲んだだろ。なんかあったらどうすんだよ」

加瀬が莉子の手を引っ張り、玄関へと連れ出した。
莉子の指先が、加瀬の手のひらの中に重なる。
躊躇なく触れられた指先を、熱い身体で少しだけ握り返すと、同じように力が込められた。


「…心配してくれたの」
「当たり前じゃん。もーほんとに、俺の心臓が持たん」



保護者のようにクリニックについてきた加瀬だが、流石に診察室の中には入ってこなかった。よくある風邪という診断を受けて、隣の薬局で薬をもらい、莉子の自宅に戻ってきた。

支払いなども全て加瀬が済ませてくれ、莉子はぼうっとする頭のまま流されるように再び自宅のベッドの中に戻った。



「薬飲んだし、俺なんか作るから、昼まで寝てな」
「とうま、」

再びリビングに戻ろうとする加瀬の手を、思わず起き上がって掴んだ。
勢いよく動いて頭の奥がくらりと痛む。

ああ、そういえば、前も、透真が雨の中私の家に来てくれて、風邪をひいて、私が強引に看病して、移って、透真が強引に看病に来てくれて、その時も、このベッドで、私は透真の気持ちを受け止めたいと思ったんだった。

つらいのを全部自分に移せと言いながら、こんなに好きでごめんと、謝った加瀬を、もうそんな気持ちにさせたくないと、

思って、

「とうま、私、っゲホッ」
「…いいから」

何を言おうとしたのかは、自分でも分からなかった。
口からどんな言葉が漏れそうになったのか、それすらも分からないまま、消えていった。

「でも、」
「ちゃんと聞くし、ずっといるから。まずは治して、心配だから」

加瀬はそう言って、仕方なさそうに少しだけ笑った。
ああ、この笑顔、久しぶりに見たかも。

「わかった…」

ずっといてくれるんだ。
ちゃんと聞いてくれるんだ。

莉子がベッドに戻ったのを見届けて、加瀬はリビングに消えていった。
ドアが閉まり、部屋の中に静寂が訪れる。
平日の午前中は静かで、クーラーの音と、微かに聞こえる車の音だけが、部屋にあった。


…なんか、私のことを嫌いになった、なんてことはなさそう?


そう思って、薄い布団を首元まで上げて、目を閉じた。
いつの間にか枕に敷かれていたタオルが取り替えられていて、その肌触りに顔を預けた。

以前は勝手にキッチンは使えないから、とパウチのお粥を買ってきていた加瀬が、キッチンで何かを作ってくれている。
遠くで微かに聞こえる調理音に耳を澄ませながら、莉子は再び眠りに落ちた。

 
 
 
 
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