ひとつの秩序
「透真…」
「あ、起きた?昼、食べれる?」
「うん…」
次に目が覚めると、午後一時になっていた。
薬が効いたのか、頭痛もなくなり、熱も七度台に下がっていた。
リビングに行くと、加瀬が小さい音でテレビを見ながら、ソファに座っていた。
「雑炊にした。冷蔵庫のもの勝手に使ったよ」
「うん…ありがとう」
「どれくらい食べれる?普通によそっていい?」
「あ、うん…」
加瀬がテキパキと器によそった雑炊を持ってきてくれ、ダイニングテーブルに流されるように腰を下ろした。
「食べれるだけでいいから、食べて薬飲んで」
「うん…あの、私、倒れてた?」
「記憶ない?俺がドア開けたら倒れてた。先輩がついてくれてたんじゃなかったの?」
「あ…それは…先輩の嘘っていうか…部屋には入ってないよ…」
「…はぁ、なるほどね」
差し出された器から、ふんわりと優しい出汁の香りが立ち上る。
雑炊は卵とネギのシンプルなものだった。
そういえば、前、味噌汁に入れようと冷凍のネギを買ったんだったなと思いながら、口に運んだ。
木のスプーンですくい上げた雑炊は、熱すぎず、今の莉子の弱った胃に吸い込まれるように馴染んでいった。
「美味しい…」
「良かった。体調悪いの、こないだの雨だろ?ごめん、傘気づかなくて」
「えっ、全然、透真のせいなんかじゃないよ」
「で、なんでそんな状態で酒なんか飲んだの?…先輩とデートしてた?」
「違う、ちょっと待って、ちゃんと話させて」
そして莉子は食べながら、静と飲みに行ったこと、気づいたらお酒が回って片倉に送られていたことを話した。加瀬は頬杖をつきながら、黙って聞いていた。
「じゃあなんで、先輩は俺に電話してきたんだよ」
「それ、は…」
どこまで、何を言えばいい?
電話の経緯を話すにはまず、先輩とは付き合えませんって話をしたって話をしなきゃいけなくて、でもその前に透真に気持ちを伝えるのが先で、でもそれってこんな、すっぴんで、雑炊を食べながら言っていいことなのか??
莉子の悩んでいる顔をしばらく見つめていた加瀬が、ゆっくりと言った。
「…全部言って、ちゃんと聞くから」
「……わたし、」
そうだ、ちゃんと聞いて、ずっといてくれるんだった。
それなら、もう安心かも。
「私、透真が好き」
「…えっ?」
「ずっと、なんで透真の好きな理由がちゃんと言えないんだろうって思ってたんだけど、静さんに言語化してもらって…私、透真がいないのが耐えられないの」
口にした瞬間、自分の心臓がどくんと響く音が、耳元で鳴った。
簡単な、ことだった。もっと早く、言えば良かった。
出汁の味が優しく染み込んでいた雑炊が、器の底に少しだけ残っていた。
作ってくれたそれを、最後まで食べたいと思って、口に入れた。
「今食べんの…?」
「全部食べる」
あの日、透真の気持ちを、受け止めたいと思った。
この人に、悲しい顔をさせたくないと思った。
透真がいなくなるのが、嫌だと思ったから抱きついた。
きっと最初から、それが全てだった。
「透真は、私にとって酸素みたいな感じで、いない世界が耐えられない。ずっとそばにいて、ずっと過ごしやすくてなんでも言える関係で、透真の顔を見ると安心するし、触れたいって思う」
加瀬は、呆然とした顔でこちらを見ていた。
予想外だと思われていたのだろうか。
「キスすると嬉しいし恥ずかしいし、その先も、全然嫌じゃないし、ドキドキして、キュンってして、毎日でも一緒にいたい。ずっとそばにいてほしい」
「先輩は…?」
加瀬が、静かにそう聞いた。
「…私が、う、浮気した日…、先輩の作った図書館の展示室を見せてもらってて、すごく、その空間とか、先輩への憧れとか、いなくなっちゃうかもって思った寂しさにいっぱいになって、一瞬、気持ちが分からなくなって、…キスが拒めなかった」
何を言おうかなんて考えられなかった。
ただ頭に思い浮かんだ言葉と単語をつなぎ合わせて、とにかく加瀬に届いて欲しかった。
「先輩の作るものはずっと好きだし、憧れもずっとある。追いつきたいなって思う。けど、透真への気持ちとは全然違う」
いつの間にか、すんなりと名前で呼べるようになっていることに、今気づいた。
三ヶ月かかって、やっと馴染んだ。
もう、苗字に戻りたくはない。
「…う、浮気、しちゃったけど…許してくれるなら、ずっと透真と一緒にいたい」
加瀬はまっすぐ莉子の目を見ていた。
その表情は呆然としているようで、半開きになった唇から何の言葉が漏れるのか想像がつかなくて、背筋が伸びた。
ああ、気持ちを伝えるのって、こんなに怖くて、こんなに難しかったんだ。
それを、ずっと隣でしてくれていたんだ。
怖くて、加瀬の顔が見られない。
「…浮気なんか…どうでもいいよ…」
「え」、と、小さな声が莉子から漏れた。
目の前から聞こえてきた声は、なにかを絞り出すような、まるで泣きそうな声だった。
視線をやると、顔を手で覆った加瀬が、微かに息を漏らしていた。
「莉子が…俺のこと、好きでいてくれんなら…他はぜんぶ、どうだっていいよ…」
少しだけ掠れていて、震えているような声だった。
加瀬が急に立ち上がって、莉子の方に回って、腕を引っ張った。
引かれたその勢いのまま、加瀬の腕の中にぽすんと収まった。
加瀬がいつも部屋着にしている、何度も洗われて柔らかくなった綿のTシャツが、頬に当たる。
ああ、きっと、昨日はすごく、急いで来てくれた。
「…っ」
頭上から少しだけ、震えた息の音がした。
思わず上を向こうと動いたけれど、がっしりと強い力のまま抱きしめられていて、ぴくりとも動かせなかった。
久しぶりの体温と筋肉の圧が心地よかった。
そのいつもの香りで安心したくて息を吸っても、鼻が詰まっている今はよく分からなかった。
どうせなら、今、耳が聞こえない方が透真にとっては都合がいいかも、と思いながら、加瀬の腕の中で、莉子は目を閉じた。