ひとつの秩序
 
 
 
 
 
もしかしたら、まだ夢の途中なのかもしれない。


莉子が俺を好きだと言って、必要だと言った。
先輩のことは、好きだけどそういうのではないと言って、俺がいないと耐えられないと言った。

そんなの、俺のセリフなのに。


「あの…透真は、怒ってない?」
「…何で怒んの?」
「え…いや、だって…先輩とキスしちゃったし…二回も」

え?一回だと思ってたけど二回だったんだ?連続で?え?どんな状況で?
そう思うも、それを素直に口に出す気にはならなかった。
改めて、事情も深く聞かないままだったと思い、恐る恐る口にする。

「…図書館で、されたんだっけ?詳しく聞いてもいいの?」
「…うん」

そうして腕の中でぽつりぽつりと話す莉子の言葉を黙って聞いて、時折、背中に回った細い腕に力が入るのを感じていた。


聞けば聞くほど、莉子のことを分かっているんだろうなと思うし、どうしてあの人よりも自分が選ばれたのか、ますます分からない。

「だから、透真が、私を嫌いになったんじゃないかって…家にあげるのも嫌そうだったし、公園まで話すのもダメっぽかったし…別れても俺は問題ないみたいな…」
「え?俺が?」

話を聞けば聞くほど、自分の思惑が真逆の印象を与えていたようで、それによって莉子が不安になり、結果的に自分の首を絞めていたと分かり、少しだけ情けなく感じた。

「だから、ゲホッ」
「ごめん、立ったまま無理させた。ベッド行こう」

莉子の咳で我に返り、手を引いて寝室に連れて行き、ベッドに寝るように促した。

「…話、今度でもいいから」
「透真…帰らないで。こっち、来て」

帰るつもりは無かったが、莉子の体調が優先だと思って言った言葉が、また違う捉え方をさせてしまったらしい。眉を下げて不安げな表情をした莉子が、ベッド脇に立つ、俺の服の裾を掴んで軽く引っ張った。

「え、」
「…ぎゅってしててよ。風邪移っちゃうかもだけど」
「…うん」

ああ、やっぱりこんなことが現実に起こっていいんだろうか。
このかわいくて、俺より小さくて、華奢な、俺の、世界。

布団の中に入ると、もそもそと動いて身体をぴったりとくっつけてくる莉子の背中に、腕を回す。シーツが二人の体重を受けて微かな音を立てた。
ふわりと香るシャンプーと、柔軟剤の匂いにひどく焦がれていたような気がする。

「あの時は、てっきり別れ話されると思ってたから…別れる男の家は嫌かなって。その話されんのかなって思ってたから、道路ってよりは公園まではせめて待って欲しくて…俺には触れられんのも嫌かなって思ったからだよ」
「…別れても受け入れるって言ってたのは、なんで?」
「……俺は、莉子がしたいようにするのが一番いいと思ってて…」

俺は、自分のどろりとした執着で、莉子がありのままでいられないことが怖い。
付き合ってから、それがどんどん侵食してきて、失いたくないという気持ちが膨れ上がっていて、必死にバランスを取っているつもりなのに、うまくいかない。

いっそのこと、俺と同じようにぐちゃぐちゃに依存してほしいとすら思うのに、そのまま莉子で俺を好きでいてほしいとも思う。

そんな究極の無理難題を、自分に課している。


友達の頃はこんな欲望は知らなかった。
手に入れたからこそ新たに始まる、地獄のようだ。

自分の内側で暴れ回る、執着という名の怪物を、抑え込む方法は、もう分からない。



「…自分より、…莉子がどうしたいかを優先したかった」



莉子は、俺の行動指針のようなものだ。
俺を形作るものであり、俺のルールが決まる場所。
ずっと、鳥のように自由に羽ばたいていて、笑っていてほしい。

それだけが、俺の世界の理《ことわり》。

俺の、秩序を作るもの。




「なんで…透真は、そんなに私を…?あの時も、他の人のところに、戻っていくって…」
「あー…莉子が、俺のことを好きって言ってくれんのが、…ずっと不安で」

こんなことを言ったら、今度こそ引かれてしまうだろうか。
そう思って引っ込めてきたはずだったのに、今自分にしがみついている柔らかい身体がたまらなくかわいくて、言葉がこぼれていく。

「頭では、分かってるんだけど…でも、昔の俺が、全然信じてない」
「…昔の、俺って?」
「……高校生の、俺」
「……」

一生、知らないでほしいと思っていた。
莉子は、先輩からキスされたことを浮気だと責めているが、そんなもの、俺からすれば今までと何ら変わらない。

ずっと近くで、ずっと俺ではない男と付き合ってきた莉子が、今さら無理やりキスを数回されたところで、俺にとっては大したダメージではない。

そう思えるくらいには、ずっと近くにいたよ。
その蓄積が、今の俺の独占欲を膨れ上がらせているんだから。

「今だって…正直、別れ話されると思ってたから…なんか、実感ない」
「……」
「ごめん、キモいよな。俺も自分でそう思う」

自分の首元に顔を埋めるようにして腕の中に収まっていた莉子が、ゆっくりと顔を上げた。幻滅されているかと思っていたが、泣きそうな顔をしていた。

「…キスしていい?」
「え?」
「ごめん、私、うまく言えなくて…風邪、うつってもいい?」

そんなん、なんでもいいよ。
お前が笑っててくれるなら、俺はどれだけ苦しむことになったっていいんだ。

「…うん」

顎をそろりと伸ばすようにして莉子の顔が近づいて、ゆっくりと唇が触れた。
また、こんなふうに近づいて、触れ合えるなんて思ってもいなかった。

「ん、」

ゆっくりと唇を離すと、莉子が再び近づいてきて、次は勢いよく触れた。
当たっているだけだったそれが、自然と啄むようになっていって、しばらくして、ぬるりと先に入ってきた舌は、莉子のものだった。

「っ」

無理させたくないと思っているのに、その甘さに理性があっという間に崩壊していく。
いつの間にか莉子の後頭部には自分の手が回っていて、夢中になって自分から攻めていて、ああ苦しそうだ、離れなくてはと思うのに、俺の服を掴んで必死で応えてくれる彼女が、欲しくて欲しくてたまらない。

「俺は、莉子が思ってるよりも嫉妬深くて、重いよ」
「んっ、は、」
「なぁ、どうしたらいい?」
「っん、とう、ま」

ああ、また、怪物に飲み込まれていきそうだ。
酸素が足りないはずなのに、もっと深く、もっと奥までほしい。

「ごめん、」
「私、透真が、っすき、だよ」
「うん、俺も好き、疑ってなんかない」

貪るように、しばらくずっとキスだけを繰り返していた。
鼻が詰まっているらしい莉子が、ぷは、とたまに唇を離して息をするのすら愛おしくて、たまらなくかわいくて、やめてやろうと思うのに身体は止まらなかった。

「と、ま」
「うん」

俺の愛は、きっと執着とセットになっている。
相手を深く知って、絡み合って、いつか自分の一部になればいいと思っている。

でも莉子は、きっと、そもそもの根っこが違うんだ。
人の愛を百パーセント純粋に受け取って、そこに全幅の信頼を寄せるから執着もしない。

俺がいなくても、愛された記憶だけで生きていけるんだろう。

これからもそばにいるであろう巨大な亡霊や、新しい可能性がそばにいて、ただ「今」愛し合っているという目に見えない絆だけでは、きっと俺の醜い猜疑心は消えない。


莉子が苦しそうにしているのが視界の端に映って、唇を離した。
潤んだ瞳には少しだけ涙が浮かんでいて、赤い頬は、もしかしたら熱が上がっているのかもしれない。
ああ、食後の薬、そういえば飲ませてなかった。
そう思って、いつの間にかはだけていた布団を莉子にかけた。

「透真」
「ん?」

カーテンの隙間から漏れる午後の光が、莉子の潤んだ瞳の中できらきらと光っている。
全て明かせたのは、あの人に勝てたからだろうか。
それでも、きっと俺は、ずっと莉子の信頼と憧れの象徴に、勝ち続けなければいけない。

莉子が、俺をまっすぐ見て言った。

「…結婚、する?」

「…え?」



 
 
 
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