ひとつの秩序
こたつの中で、足の位置がほんの少しだけずれて、触れそうで触れない距離が続いている。
ソファにもたれている背中に、隣の加瀬の背中の気配をじわりと感じる。
肩が、加瀬の腕に当たりそうで、避けられているみたいな距離。
手を伸ばしてアイスを取ることさえ憚られるような距離に、心臓が早くなる。
「ふ、」
加瀬が少し隣で笑う。
目線をそちらにやることすら出来ない。
今の心情が、気持ちが、熱さが、伝わっているような気がしてしまって怖い。
「溶けるぞ」
「ありがと、」
莉子が選んだアイスの袋を、加瀬がテーブルから取って渡す。
ぎこちなくそれを受け取って開けて、アイスにかぶりつく。
サクリと音がして、甘さが舌に広がる。
さっきのぴりぴりとした刺激がようやく引いていく。
身体の熱さも少し落ち着き、伸びていた背中も少し丸まっていく気がした。
「ん」
「えっ、ん」
加瀬がアイスの小さいスプーンで自分のアイスをすくって、目の前に差し出してくる。いい、大丈夫と遠慮する暇もない。口のすぐ前に置かれたスプーンが動き、莉子の口もそれに合わせて開く。
逃げる前に、舌に触れて、もうなかった。
口の中にほろ苦いキャラメルの優しい甘さが広がる。唐突なそれに、チラリと目線だけで加瀬を追うと、加瀬はなんてことないようにそのスプーンで自分のカップアイスを食べ進めている。
お、おかしい。
この男、そういうところは前からしっかりしてたのに。
居酒屋で料理を取り分ける時すら、新しい箸を使っていたのに。
いやいや、中学生じゃないんだから、私は何でこんなことで動揺しているんだ。
早くアイスを食べ終えれば、この時間も終わる気がして、いつもより早く口に運ぶ。パリパリ、サクサク、モナカを選んでしまった自分が今は恨めしい。自分の音だけが部屋に響く。
さっきまで普通だったはずなのに。
なに、この空気。
加瀬とのいつもの空気じゃない。
「急に静かじゃん」
「アイス味わってるの」
「へぇ、俺のもう一口食べる?」
「だ、大丈夫」
「好きなやつだろ?これ」
「いい、自分のあるから」
夜の住宅街特有の、音が吸い込まれたような静けさ。
こたつの中で、加瀬が少し体勢をずらしたのが、布団越しに分かる。
こんな状況で、なぜ私は黙々とアイスを食べているのか。アイスの味が全然分からなくなっているのに、減る速度だけは早い。
「南」
「…何」
「意識してる?」
「ブッ」
「きたね」
唐突な加瀬の言葉に、思い切りむせて変な音が出る。口元に少し垂れたアイスを、加瀬が差し出してきたティッシュで拭う。肩が触れていないのに、触れている気がして、動けない。目の前に置かれた、空になったアイスの箱が、やけに存在感を持っている。
「何、言ってんの」
「メッセージも何回も未読無視しやがって」
「えっ」
「バレバレなんですけど、やめてくれる?わかりやすいの」
「はっ!?知らないし!」
まだ半分も食べていないアイスを再度口に運ぶ。ぱきっとチョコレートが割れる音がやけに大きく響いた。
加瀬の方が、見られない。でも、見られているのは分かる。
「そんなんでどうすんの?南、それなりに彼氏いたじゃん。高校の時からさ」
「何の関係があるのっ」
「あるでしょ」
「なにっ…」
そう言いながら加瀬の方を向いた。
今まで、目の前のカセットコンロだけを見つめて返事をしていたから、知らなかった。加瀬はソファに片肘をついて、身体をこちらに向けている。
目を向けた途端、加瀬の真剣な顔が飛び込んできて、何となく、息がしづらいような感覚がして、
「どうせ、あの先輩から言い寄られてるんだろ」
「そんなことあるわけないじゃん」
「俺に言ってないこと、あるだろ」
「言ってないこと…?」
「最近、何があった?その先輩と」
視線を落とした先に、自分の手が目に入る。
——『…ダメだよ、弱ってる男にそういうこと言ったら』
そう言って、片倉の手が莉子に伸びて、頬をするりと撫でていった。
そのまま机の上の、莉子の手の上に重なって。
あの時の片倉の目線を思い出す。
照明に、料理の湯気が消えていって、隣の席の音しか、一瞬聞こえなくなったような気がして、
『…顔、赤いね』
そう言って、さらりと退かされた、自分よりも大きい手。
何度も励ますように莉子の肩を優しく叩いてくれていた手が、初めて温度を持ったまま触れた——
「わーーーーー知らないっ、」
目線を自分の手からずらす。
視線の行き場所がない、この部屋は加瀬の部屋で、どこを切り取っても加瀬を感じてしまうから。
「は?何その、思い出して改めて照れてるみたいな」
隣から呆れたような声がする。
何で、何で加瀬は、今まで普通だったのに、友達だったのに急に、
いきなり私のこと、そうやって乱して、私が悪いみたいな声を出して、何で、
「か、加瀬だって!」
自分が何を言おうとしているのか、脳内に思い出しているのは何か、もうわからない、何も考えられない。
机の上に、袋を置く。
アイスはもう、食べられない。