ひとつの秩序
「か、加瀬だって!」
あ、だめだ、止まらない。
一瞬、空気が止まった気がした。
加瀬の方を勢いよく見る。加瀬は真っ直ぐ私を、少し見下ろすように見ていて、私が視線を合わせたことで少し目を見開いて驚いたような表情をする。
「せ、先輩が耳触ったって言ったら、加瀬だって触ってきたじゃんっ!」
「…」
「先輩が、可愛いって言ってくれたけど、加瀬だって言ってくるじゃん!」
堰を切ったように、言葉が溢れてくる。
加瀬がもう、どんな表情をしてるかは見られない。
「加瀬は、先輩より何回も可愛いとか言ってくるじゃん!先輩が、ほっぺ触ったり、手握ったりとかしてきたって、加瀬だって、今も、っ」
違う。
今は、勝手に意識しているのは私だけだ。
加瀬は、別に大したことをしてきているわけじゃなくて、
私が、ただ、何だか、猛烈に加瀬の存在を、意識した、だけで。
「……っ」
「急に黙んなよ」
今まで黙って聞いていた加瀬が、口を開いた。
私の声だけが響いていた静かな部屋に、落ち着いた声が広がる。
「で?」
そう言って、加瀬は膝の上に置かれた私の手の上に、自分の手を重ねた。
身体がビクッと反応する。
当然その反応も視界に入っているだろうに、加瀬はその手を退かそうとはしない。
「手を握られたって?ほっぺ触られたって?」
「…や、」
加瀬の手がゆっくり伸びてきて、私の右頬を触る。
さらりとした指は、少しだけ熱い。
ソファを背に、ローテーブルに挟まれた狭い空間で、向き合うような形になる。私は、加瀬を見ることができない。
近い。
加瀬とこんなに距離が近くなったことが、あっただろうか。
自分の吐く息が熱いことが分かる。
さっきまで、冷たいアイスを食べていたはずだったのに、
「聞いてねーな」
「そんな、全部加瀬に言うわけ」
「言ってたじゃん今まで」
加瀬はさっきより少しだけ強い力で、私の手を包んだ。
大きな手が、自分の手をすっぽり包む。
「、」
「そいつとの会話からその日の服装から、話したことまで全部俺に言ってたじゃん」
「…い、言ってたっけ」
「全部言ってたよ」
時計の針が進む音だけが、部屋の中で妙に目立つ。
暖房は切ってあるのに、こたつと人の熱で部屋がじんわりしている。
「何で急に教えてくんなくなったの?」
加瀬はそう言って、少しだけ私を覗き込むようにした。
視界の端で、加瀬の動きが伝わってきて、ますますどうしていいか分からない。
自分の視界のサイドは、ふわりとカーブを描く髪の毛で覆われていて、見えている部分は少しだけなはずなのに。
「……」
言葉が出てこない。
何か言わなきゃいけないはずなのに、頭の中が追いつかない。
止まっていた加瀬の指が、するりとまた動いて、頬をひと撫でして、去っていく。
同時に私の手を包んでいた力も弱まり、離れた。
「…そろそろ、帰る?」
思ってもない言葉に、急に現実に引き戻されたような気がした。
視線は相変わらず私に注がれているのが伝わって、私は変わらず顔があげられない。
「送るよ」
「…だい、じょうぶ」
絞り出すように言葉が漏れた。
これ以上、加瀬と一緒にいたらいけない気がした。
「もう遅いし」
加瀬は立ち上がる気配も見せずに続ける。
淡々としている柔らかい声は、いつもと変わらない。
「嫌なら、後ろから黙って着いてくから」
立ち上がる理由も、動くきっかけも見つからない。
足先だけがこたつの中で、微かに動く。
「いや、とかじゃないけど…」
「うん、じゃあ立って」
声が、自分でも驚くほど弱い。
短く頷く気配がして、加瀬がそう言って、手を差し出した。
ここでこの手をとれるほど、私の気持ちは整理できていない。
「ひ、一人で、立てる……」
言いながら、膝に手をつく。
胸の奥がじん、と痺れた。
おかしい、加瀬に対して、こんなの。
先輩にだって、こんなふうに、息が詰まるみたいな、ぎゅうって気道が塞がるみたいな、こんなことなかったのに。
「…まだ一緒にいる?」
体勢が変わらない私に、隣で加瀬も体勢を変えずにそう言う。
「ちょっと、もう、黙って、加瀬」
「…はーい」
玄関までの時間は、ほとんど覚えていない。
靴を履いて、ドアを開けて、冷たい夜の空気に触れて、ようやく少しだけ、頭が冷えた。
外に出て、三分くらい経った頃、頬の熱が、ほんの少しだけ引いていく。
それでも、完全には戻らない。
「じゃあ」
短く言って、歩き出す。
いつもより早足で、自宅へ向かう道。後ろを見る余裕はない。
いつもの自転車を押す音が、一定の距離でついてくるのが分かる。
振り返らない。立ち止まらない。
早く歩いているはずなのに、行きよりも倍の時間がかかってるみたいだ。
玄関の前で鍵を開け、ドアを閉める。
カチリ、と音がして、ようやく外と遮断された。
数秒後、遠ざかる自転車の音。
それが完全に消えるまで、私はその場で動けなかった。