ひとつの秩序
「寝不足…」
二回目のアラームの音で、むくりとベッドから起き上がる。視界の端に入るのは、変な方向に跳ねていることが分かる前髪。
あの日、早く寝て、身体に残る熱と感覚を逃がしてしまいたくて、家に入ってからすぐに風呂や支度を済ませてベッドに入った。
それでも脳裏に浮かぶあの時言われたこと、表情、触れた、温度。
全てが蘇ってきてしまって、その度に頭を抱えていた莉子が寝られたのは深夜だ。
頭がそれでいっぱいすぎて、夢にまで何となく出てきていたような気がする。
最悪だ。こんなことで頭を支配されたく無いのに。そんなことを思いながら朝の準備に取り掛かる。
昨日は一日、何をしてもだめだった気がする。
頂き物のコーヒーのパックで丁寧にコーヒーを入れてみても味がしない。
目の前のテレビから流れてくるエンタメも、何一つ頭に入らない。
加瀬と鍋をしたのは土曜日、何も身に入らない日曜日を過ぎて今日は月曜日。
仕事でよかったかもしれない。
一日経った今でも、ふとした瞬間に思い出してしまう。
あのときの暖かい空気の中に、たまに混ざる刺激臭の残り香に、加瀬の、手の温度と、いつもの、ウッディーで、さわやかな柚子を思わせる、加瀬の、匂い、
「あーーーっ」
メイクをしながら再び頭の中によぎった映像を止めようと、テレビの音だけが響くリビングに莉子の声が漏れた。エアコンから吹き出される温風の音が耳に届く。
家で良かった。切り替えよう、今日の服は何にしよう。
莉子は再び手元を動かし、メイクに戻った。今日やらなければいけないタスクを思い出しながら準備をし、会社に向かった。
あの後、加瀬から送られてきたのは一言だけ。
【おやすみ】
その一文は、昨日は返せなかった。
でももう大丈夫。会社での始業前、莉子は一息吐いてから、【おはよう】とふざけた猫のイラストが描いてあるスタンプを一つだけ送って画面を閉じた。
スタンプで送ったのだから、そのあとはスタンプが返ってくるか、何も返ってこないか、それだけのはずだ。そんなことは頭で分かっているはずが、莉子は何度もスマホをチラリと見てしまう。
「南、今日出してって言ってたやつ、終わってる?」
隣のデスクから片倉が声をかけてきて問いかける。
目の前で広げていた画像は、まだ締め切りがあると思っていたもので片倉の言葉に驚く。
「えっ、今日、あれっ」
「先週金曜の会議の最後にちょっとだけお願いしたLP」
「あっ、ごめんなさい、すぐにやります!」
「うん、まだ大丈夫」
最悪だ、仕事にまで影響が出ている。
リマインダーに書いておいたはずなのに見逃していた。
莉子は急いで画面を切り替えて作業をする。単純な作業で、片倉に言われた時点で何となく構想を練っていたのですぐに取り掛かることができた。
片倉のチャットにデータを送ると、片倉がそれをすぐに確認したのか、隣のデスクから頷いてOKを知らせてくれ、莉子は肩の力が少し抜ける。
「すみません、私すっかり抜けていて」
「いいよ、間に合ったし。早くなったね」
「ご迷惑をおかけしました」
「珍しいね、なんかあった?」
片倉が今まで通りの上司の口調で、心配そうに問いかけてくるので莉子も今まで通り、後輩として返事をする。頭の中で忘れていないものがあるのに、何もなかったようなフリはできてしまう。
キーボードを打つ音が、あちこちから重なって聞こえる。
「いえっ、何でも…」
片倉にそう返事をした瞬間、デスクの上に置いていたスマホが振動して音を立てる。
一回だけ鳴ったそれは、画面が明るいまま、上部に通知を残した。
それを少しだけ反射で見る。
「…何でも、少し寝不足で」
途中で切れてしまった言葉を再度続けた。
えへへ、と面白くも無いのに口元を緩めて愛想笑いをする。
両手を合わせて再度謝る莉子を、その一連の動作ごとじっと見ていた片倉が口を開く。
「みなみ、」
少し掠れた声だった。
莉子はそれに気づかない。
「はい、」
莉子は真っ直ぐ片倉を見て返事をした。
片倉は言いかけた言葉を飲み込むようにして、口元を緩めてニコリと笑う。
「何でも、これはいいから、作業戻っていいよ」
そう言って、右手をひらりと振った。
その手に違和感を感じて、莉子は視線を送った。
「…ああ、これね」
片倉は莉子の視線を追って気づいたらしい。
先日までそこに嵌まっていた指輪があったところを反対の手で触れた。
表情は、変わらない。
莉子にはいつも、片倉が何を考えているか分からない。
「距離、置くことにしたから」
「…えっ?」