ひとつの秩序
 
 
だ、誰かに相談したい。
そう思ったのは、次の日の朝だった。

次の日、オフィスのガラスからは気持ちの良さそうな自然光が差している。
今日は片倉は一日社外でいない。
莉子は朝から隣の空っぽのデスクを見て胸を撫で下ろす。

昨日、片倉が彼女と距離を置いたと莉子に伝えた時、何と反応していいのか分からずそうなんですねとしか返答しなかった。片倉も特にそれ以上何か言うこともなく、お互い仕事に戻った。

それからその話題が出ることもなく、莉子の頭の中の疑問や悩みだけが増えたまま日にちだけが過ぎていく。

彼女がいるから、そう思っていたしそれがあるからこそ、片倉の行動を気の迷いだと思うことができた。ずっと指に嵌められたピンクゴールドのリングが光っていたからこそ、それ以上何も考えなくて良かった。なのに。

誰かに相談したい、七菜香じゃだめだ。先輩のことを知らないし、加瀬のことも言いづらい。
何でも人に相談して解決するタイプではないが、自分だけではもうキャパオーバーだ。そう思いながらも手だけは必死に動かす。

昼前、オフィスにも人がほぼ揃ってざわついてきた頃だった。

「南ー、今余裕あったりする?」

黒のピッタリとしたニットに白のパンツ、ヒールを鳴らしながら近づいてきた静が莉子に声をかけた。ゆるりと下の方でまとめたおだんごには大きめのスカーフが巻かれている。

「静さん!」
「わっ、なに」
「余裕あります!あと今日ランチ行きたいです!」
「え?いいけど」

何?面白い話?と静は空いている片倉の椅子に腰掛けて莉子に近づいた。ブラウンオレンジのリップがひかれている唇は弧を描いていて、莉子の表情から何かを悟ったようだった。






「へーなるほどね」

静を誘って早めのランチをした。
会社から少し離れたオシャレなカフェだ。
平日だと安くランチをしてるのよ、と静が教えてくれた。

片倉のプライベートなことは、同期という立場を考えると話すべきか迷ったが、内緒にしてほしいと頼めばそれは守ってくれるということは分かっていた。

「南は、どうしたいの?」
「どうしたい…?どうしたいっていうか、どうしたらいいか聞きたくて…」
「えー私が決めていいの?」
「静さんならどうしますか?私もう頭がパンクしそうで…」
「私ならかー、うーんそうだなー…」





帰り道、静とのやり取りを思い出しながら莉子は歩いていた。
駅に着くと、ちょうど改札の向こう側から片倉がやってくるのが見えた。
じっと見ていると片倉も視線に気付いたのか、莉子に手を振ってこちらに向かってきた。

「今帰り?」
「そうです、先輩は、会社に?」
「そう、ちょっと今日中に確認しておきたくて、ちょっとだけね」

改札から少し離れた所。
人の流れが一度よどむところで片倉と並んで立って話す。
ICカードを探す人、後ろから急かす足音。
構内アナウンスが、少しだけ反響して聞こえる。

「今日は、何も忘れなかった?」

片倉が少しイタズラっぽく笑って莉子に言った。
ああ、これ、いつもの、先輩が私を揶揄う時の、

莉子は一歩前に出て、片倉との距離を詰めた。
そのまま、手を伸ばして片倉の手を握った。

「…からかわないで、下さい」

忙しない帰宅ラッシュの時間。誰も、私たちのことなんて気に留めない。
改札機の電子音が一定のリズムで鳴り続けている。

外を歩いてきた自分の手は冷たく、電車に乗ってきたであろう片倉の手は温かかった。少しだけ力を入れて手を握り、すぐに離す。
金属と空調の匂いが混ざった空気。片倉が自分を黙って見つめているのを感じる。

莉子も一瞬だけ片倉を見て、すぐに視線を下ろした。

「じゃあ、お疲れ様です」

それだけ言って、片倉の前を離れた。人の波に乗って、ICカードをかざす。
ピッ、という乾いた音がして、いつもと同じ調子で、改札を抜けた。



——『翻弄してやんなよ』『え?』
『相手からの言動に振り回されてるわけじゃん?南も振り回してみたら?』
『振り回す…』
『悔しくない?自分ばっかりわーってなって、相手が涼しい顔してんの』
『悔しいです…!』
『うん、だからさ、掻き回して振り回して、南が今そうなように、あっちも南のことで頭いっぱいにさせちゃえば?』——


恥ずかしかった、恥ずかしかった、恥ずかしかった!

階段を駆け下りるようにしてホームの隅に移動した。
自分の顔が今更ながら赤いことが何となく分かる。
別に、先輩が私にしてきたことを返しただけだもんね。罪悪感とやましい気持ちは残りつつも、片倉の驚いたような顔が一瞬見れたことが何となく嬉しい。

静さんの言うとおり、できたのかな。

そのままの勢いで、莉子は加瀬に電話をかける。
仕事中かもと思ったが、二回目のコールで加瀬は出た。

『どうした?』
「加瀬」
『電話とか珍しい…』

加瀬がまだ話しているのは分かっていた、けれどあえてそれを遮って莉子は口を開く。

「今度、また美容院行くの」
『は?』
「次はパーマあてるの」
『はぁ…』

怪訝な声で短く返答が返ってくる。
ホームの端は、人の流れが少し途切れている。
階段やエスカレーターから離れているせいか、立っている人もまばらで、足音が間延びして聞こえる。

「加瀬、私のふわふわパーマ好きでしょ」
『はっ!?』
「触りたそうによく見てるの、知ってるんだから」
『っ!?』

電話口で焦った加瀬の声が聞こえるも、それを気にせず赤いボタンをタップして通話を終了させた。大したことを言ったわけじゃないのに、何だか気分が高揚して、自分の息が荒い気がするのは気のせいだろうか。

言ってやった、言ってやった!
前から思ってたこと言ってやった!

何だか少し、笑い出してしまいそうな気分だ。静に言われた時はそんなことできるわけないと思ったが、勢いで実行すればできるもんなのかもしれない。

電光掲示板が切り替わるたび、発車時刻の数字だけが静かに動く。
向かいのホームに電車が入る音が、風を押し連れて響く。

加瀬も先輩も、少しは動揺したらいいんだ、私だけ動揺させて、二人とも何てことないような顔をして。
私がそうだったように、加瀬も先輩も、そうなればいいの。

誰かが咳払いをして、それが妙に大きく聞こえた。
莉子は少し足を進めて、次の電車に乗るための列に並び直した。
 
 
 
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