ひとつの秩序
 
 

私の「翻弄」から二日。
あれが効果があったのかは分からない。これ以上はもう出来ないし、それについての深追いもしたくない。

朝から、いつも通りだった。
昨日も今日も、特別なことは一切起きていない。

メールを返して、資料を直して、静に言われた修正を入れて、昼は適当に済ませて、午後の会議に出席した。片倉もいつも通りだった。
声のトーンも、距離も、仕事の進め方も、何も変わらない。
あの時の驚いた顔は忘れないけれど、私だけがそれを覚えていればいい。そう思っていた。

ただ、ーーたまに、甘い。

「南、」

名前を呼ばれる回数が、妙に多い気がする。

「南、これ一回出してくれる?」
「南、さっきの続きだけど」

肩越しに画面を覗かれる距離も、指を指す位置も、全部前と同じなのに、ほんの少しだけ、そこに柔らかさを感じるのは気のせいだろうか。

「今日、ちょっと遅くなりそうかも。大丈夫?」

ごめんね、そう言いながら、片倉の手がふっと頭に置かれた。
撫でると言うより、位置を確かめるみたいに置かれただけで、すぐに去っていった。
莉子は一瞬、言葉に詰まる。

「大丈夫です」

声はちゃんと出た。何事もなかったみたいに。
片倉はそれ以上何も言わなかった。



帰り道、加瀬からメッセージが届いていたのを見つけ、返信しながら帰りの支度をする。何もなかったかのようだ。私の電話での言葉も、あの鍋の日の加瀬も。でも、それでいい。別にいい。

「一緒に駅まで行こうか」

会社に残っていたのは、片倉と莉子だけだった。電気を消して、会社を後にする。
駅までの道は暗く、人もまばらだった。マフラーをきつく巻いて、ポツポツとなんて事のない話をしながら片倉と大通りを歩く。

人通りは少ないが、車はまだまだ通っている。
この時期の大通りの脇に植えられた木には電飾が巻かれていて、あたりをオレンジ色の光で満たしていた。

「…こないだの」

片倉がぽつりと言った。
莉子が改札に降りるエレベーターまで、後少しのところだった。
一瞬、足が止まりかける。

「もう、してくれないの?」
「…何のことですか」

そっか。
片倉が少し間を置いて、そう言った。
莉子は片倉の方を見ない。片倉も、きっと莉子のことは見ていなかった。
それ以上何も言われず、じゃあね、と手を降って別れた。

片倉と別れて、ホームでスマホを見ると、さっき返した文章に、加瀬からまた返信が来ていた。
電光掲示板には、二十二時の電車が表示されている。久々にこんなに遅くなってしまった。帰ったらすぐにお風呂に入って寝よう。莉子はそう思いながら、加瀬にメッセージを返す。

【今帰りなんだー】
【遅いじゃん。迎えに行ってやろうか?】

すぐに来た返事に、一瞬動揺する。
こんなことで動揺してどうするんだ。ちょうど電車がホームに到着し、莉子は乗りこむ。この時間ともなると空いていて、席も空いていた。

何と返そうか迷って、ウインクしている絵文字一つだけ送った。
既読はすぐについたが、そのあとは何も返信が来なかった。
寝たのかなと思い、莉子もスマホをコートのポケットに仕舞ったままだった。

「えっ、何でいるの!」
「え」

莉子の最寄り駅の改札を出ると、目の前に加瀬が立っていた。いつもより人の少ない改札口に、莉子の声が響く。

「来ていいって言われたから」
「そんなこと、言ってない」
「でも来なくていいって言わなかっただろ」
「屁理屈じゃん」

飄々と、なんてことないような顔をしてそう返す加瀬に、莉子は加瀬を追い抜かすように歩き出す。改札を出ると急に寒くて、マフラーに顔を埋めた。今日は風がないだけまだマシか。加瀬は莉子の後ろをそのまま着いてきて、出口の脇に停めてあったらしい自転車を引きながら、莉子の横に並んだ。

「今日は夜遅いの」
「まぁ、色々あったからさ」
「危ないじゃん」
「別に、今までもあったよ」
「じゃあ遅くなる時は毎回教えろよ」
「なっ、いやだよ」
「嫌なの」

少し莉子が早歩きをしたところで、莉子よりも十五センチ以上背が高い加瀬にとっては、何てことない。むしろいつもが莉子に合わせてくれているのだろう。悠々と着いてくる加瀬を見て、莉子は舌を出した。

住宅街はもうみんな眠ってしまったかのように静かだ。
街灯だけが道を照らしていて、通り道にあるコンビニすら何の音もしない。

「…なぁ、何でこないだからそんななの」
「もう私、加瀬のことなんか気にしないんだから」
「…へぇ、気にしてたんだ?」

加瀬がゆっくり、噛み締めるようにそう言った。
しまった、言い方を間違えた。
莉子がそう思った時にはもう遅い。

「っは?」
「それは良かった、意識してくれてて」

風はない、けれどいつもより少し早足で歩く莉子の髪は揺れる。
加瀬はさっきよりも距離を縮めて、莉子の隣に並んだ。

「〜〜っ、もうすぐ家だから、加瀬帰っても大丈夫だよ!」
「早いなー」
「そうだよ、だから送ったりしなくたって…」


いいんだから。そう言おうとして、言葉が止まる。


加瀬の手が、莉子の長い髪を触る。
触れられたことが分かって、莉子の足も止まる。

「なぁ、美容院、次はいつ行くの」
「し、知らない、教えない」
「ふわふわだな」

加瀬は優しく、愛おしいものを撫でるかのように手を上から下へ滑らせ、莉子の髪を触った。まるでそこに神経が通っているかのように、莉子は動けない。

「離して」
「見たいから、教えて」
「〜っ、今までも、見てきたじゃん、特に変わらないよっ」
「確かに。じゃあさ、」

加瀬は一歩、莉子に近づいた。
髪の毛が少し持ち上げられて、加瀬が自分の頬に、莉子の髪を寄せた。

「なっ」
「次からは普通に触っていい?」

加瀬は少し意地悪そうに笑って、莉子を見て笑った。
この男、楽しんでいる。

加瀬って、こんな意地悪なことを言って、いたずらをした子どものように、楽しそうに笑う男だったのか、


「〜〜だから、っダメに決まってるじゃん!」

莉子は一歩後ろに下がる。
加瀬は手を離し、ふわりと髪は重力に従って、莉子の元に戻る。

私の翻弄は、もしかして良くなかったのかもしれない。
落とした爆弾の、威力を増して落とし返されている気がする。

静かに口角を上げて、莉子を見下ろす。
その目つきに耐えられる気がしなくて、莉子は目の前まで来ていた自宅に、小走りで向かった。共用玄関の鍵を開け、加瀬を一瞥すると、加瀬はこちらを見ていた。

もう、気軽に上がる?何て聞けない。
莉子は静かにドアを閉めた。今日は自転車の走り去る音は聞き届けず、家に入った。
 
 
 
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