ひとつの秩序
 
 
 
 
「それだと、うちの歴史が薄い気がします」


クライアントと社内合同の三回目の会議、前回より少し内容が深まり、詰めるところも増えてくる。
雰囲気は決して悪くなかったが、どこか引っかかる様子のクライアントがそう一言発したところから、会議の空気が静かに変わっていった。

自分の感覚が否定されたような気がしたし、クライアントの言葉に反論できず、それに対する言葉も見つからない。

説明、しきれなかった。


こう言うところで言語化がしっかりできてないと、返せないんだなぁ。
今までは、そんなことすらも片倉先輩に甘えていたんだ。

誰もいなくなった会議室で、プロジェクターを消灯した。
机の上にまとめておいた資料は、一部が置き去りにされていて、それすらも否定されたような感覚に陥る。

修正をされることなんて何度もある。
会議で否定されたことも初めてではなかった。
ただ、歴史を大切にしていた会社に、歴史が薄いと思わせてしまったことが、根本から間違っていたような気が、自分の中で掴んでいたものが全部間違っていたような気がしてしまって。


「お疲れ」

開けっぱなしになっていたドアから、片倉が入ってきた。
会議机に広げたパソコンを見つめていた莉子は、片倉を見た。

「きつかった?」

片倉はそう言って、莉子のパソコンの横にパック飲料を置いた。
莉子はそれを見て、思わず声が漏れる。

「私が、好きなやつ…」
「飲みな、甘いの」

それだけ言って片倉は会議室を出て行った。
手には白いビニール袋が揺れていて、コンビニで買ってきてくれたのだということがわかる。片倉が見てくれている、その事実だけで、もう一度画面に向かえる気がした。
莉子は会議室を出て自席に戻り、作業を続けた。席に戻る頃には、片倉はもういなかった。





それから数日、夜遅くまで残業をした。
修正が入ったり、却下されたり、また修正が入ったり。
資料にも書き込みが増えてきて、自分が今どこを直しているのかすら分からなくなりそうだ。

オフィスには、もうほとんど人がいなかった。
天井の照明は半分だけが点いていて、昼間よりも机の影が濃い。

キーボードを打つ音が、やけに響く。
誰かの話し声も、電話の音もない。
莉子は画面を見つめたまま、カーソルを動かしては止め、また一文消して、手を止めた。

私、今まで本当に感覚だけでやってきていたし、周りの人に助けられていたんだな…。
うまくいっただなんて、烏滸がましかったな…。

思わず心の中で弱音を吐く。隣の席の片倉は、今日は昼過ぎにオフィスを出て行ったまま戻ってきていない。
このままデスクで画面を見つめていても、新しく何かが生まれる気がしない。
定時ももう過ぎているし、帰ってしまおうか。

窓ガラスに映る自分の顔は、昼間よりも疲れて見える。

修正案を開いて、一つ消して、保存して、また別の案を開く。

どれも、しっくりこない。
どれも、間違っている気がした。

そう思ったところで、デスクの向こう側を通り過ぎようとしていた静と目が合った。
莉子の表情を見て何か察したのか、後ろに回り込んで画面を覗き込んだ。

「詰まってんの?」
「はい…」

静に相談してしまいたいところだが、静はこの案件の担当でもない。
それに、たくさん甘えてきていたということを自覚した今、自ら甘えにいくということはしたくない。

「南はさぁ、説明が足りないのよ」
「説明?」
「一回、言葉として全部を言語化してみな」

じゃーねん、とにこやかに手を振って去っていく静を見て、莉子は言われたことを頭の中で反芻する。言語化、してたつもりだったけどできてなかった?それが伝わっていなかった?こんな感じ、って思っていたのは、日本語で表すと何になる?

頭の中が目まぐるしく回転していくのを感じる。
莉子は別の画面を立ち上げ、キーボードを打つ。頭の中に浮かんだものを、とにかく、書き出してみる。


そうして一時間後、最後に残っているフロアの照明は、会議室側と、莉子のデスクの上だけだった。

マウスをクリックする音が、やけに大きく聞こえる。

今日は、ここまでかもしれない。
そう思ったところで、背後に、気配が増えた。


「チョコ、食べる?」

コートを着た片倉が、莉子の後ろを通って自分のデスクに戻ってきていた。
打ち合わせで外から戻ってきたのか、マフラーは巻かれたままだ。

「せんぱい…」

マウスの横に置かれた小袋を見て、莉子から弱い声が漏れた。
なんでまた、私の、好きなやつ。

コンビニで買える小袋サイズの、ピンク色のパッケージ。
いちご味でコーティングされたチョコは、莉子がコンビニでよく買うものだった。

「忘れ物、取りに来ただけだからさ」

そう言って片倉はデスクの引き出しを出して、中のクリアファイルをいくつか取り出して、一つをカバンに入れた。

コートの肩の部分は少し濡れていた。
雨が、降っているのだろうか。窓際の席なのに、そんなことも気づかなかった。

「南」
「はいっ」

片倉に名前を呼ばれ、反射的に返事が出る。
莉子の返事を聞いて、片倉は少し笑った。目が優しい。

「ふんばれ」
「…はいっ!」

片倉はそれだけ残して、廊下の暗がりに溶けていった。
足音が、廊下の奥に消えていく。

オフィスには、また静けさが戻る。
空調の低い音と、パソコンのファンが回る音だけが残った。

莉子は、もう冷め切っているコーヒーに手を伸ばした。

チョコは、この修正が終わったら一気に食べる。
先輩が顔を見せてくれただけで、今の私は頑張れる。

不思議と、さっきより画面を見るのが、少しだけ怖くなくなっていた。
 
 
 
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