ひとつの秩序
莉子は次の日、前日に洗い直した資料を再度読んでいた。
昨日の続きを、今日すぐ形にしたくて仕方がない。
掴んだ気がする何かを、ちゃんと目に見えるものにしたかった。
クライアントの創業した時の気持ち、工場での写真、それまでのロゴや古い展示会の写真。それらをみると、明らかに「今風」ではない。ただ、洗練されていないからこその温かみと、続いてきた理由があったのではないか。
会議での言葉が、頭の奥で何度も反芻されていた。
「歴史が薄い」それは、否定というより、問いだったのかもしれない。
――この会社を、ちゃんと見てるか?って。
創業当時の資料には、茶葉を手で選別する工程や、季節ごとに配合を変える工夫が当たり前のように書かれている。
効率よりも、手触り。
派手さよりも、続いていくこと。
若さと、歴史は、反対側にあるものじゃない。
積み重ねの上に、新しいものができていく。
「…あったかさ、か」
莉子は独り言のように呟いて、昨日書き出したドキュメントを再度開いた。
誰に向けて。どんな時間に。どんな気分のときに。言葉にしてみると、自分の中で埋まっていた言葉たちが出てくる。頭の中で曖昧だった感覚が、少しずつ輪郭を持ちはじめた気がした。
数日後、再提案のための資料提出前に、莉子は最終チェックのためにメインデザイナーのデスクへ向かった。
「何度も申し訳ありません。見ていただけますか」
画面を差し出すと、しばらく無言でスクロールされた。
修正はない。佐伯が、画面を見つめながら一つだけ、と言いながら莉子に問いかけた。
「これ、誰に一番届いてほしい?」
「…日常の中で、自分を気遣う余裕が出てきた人、です」
ドキュメントの締めくくりに自分で書き出した文章。
デザインを作るときに、なんとなく思い描いていたものを言葉にして、その言葉から表現していく。
片倉がしていたのは、こういうことだったんだろう。
「特別な人じゃなくて、自分のために選ぶ人に、長く使ってもらいたいです」
画面から目を離したメインデザイナーが、短くOK、とだけ言った。
「これなら、うちのこれまでを否定していないですね」
クライアントとの再提案の場で、そう言われた瞬間、ほっとして、息が音を立てて漏れた。自分でも驚くくらい。
クライアントへの説明もできる?と聞かれ、できますと答えた。思っていたよりも落ち着いた自分の声に、少しだけ驚いて、莉子は説明をした。
「まだ残ってたの?」
「先輩…」
片倉が会議室から降りてきた。
帰ろうとコートをロッカーから取ってきていた莉子に声をかけた。
片倉も帰るらしく、パソコンをカバンに入れている。
ここ最近のお礼を言おうと、莉子はそれを少し待って、準備ができたらしい片倉の隣に立ち、一緒にその場を後にした。
「終わったんでしょ?ひとまず」
「はい」
「早く帰ればよかったのに」
「…なんか、ふわふわしちゃってて」
片倉はオフィスのエレベーターのボタンを押しながら笑う。
笑う時に肩を少しすくめるようにするのは、片倉の癖だと莉子は知っている。
「南って、擬音が多いよね」
「えっそうですかね、なんだろう、ふわふわって、なんて言えばいいのかな」
「…わかるよ」
片倉は短く一言だけそう言った。
同意されると思っていなかった莉子は、少し上にある片倉の顔を見つめた。
エレベーターに乗って、一階に降りる。
オフィスの正面玄関を出ると、まだまだ風が冷たく、マフラーを少し上にずらして、顎を隠した。
「あんまり実感なくて、でも自分の実力を認められて嬉しくて、ほっとした気持ちと、もっとやれそうな気持ちと、飛び上がりそうで、でも込み上げてくるものもある」
足元を見ながら、片倉は歩く。
隣の莉子の歩幅に合わせながら、ゆっくりと一つずつ言葉にしていた片倉は、反応がない莉子の方を見る。
マフラーを覆う様に伸びた莉子の髪の毛の隙間から顔を覗くと、無言で涙をこぼす莉子が見えた。
「…南」
「や、なんで私、」
ポロポロと涙をこぼし始めた莉子の腕を、片倉はほんの少しだけ引き、大通り沿いに立つ、公衆電話ボックスの裏へと促した。
電柱と植え込みに囲われた、公衆電話ボックスの裏。
背後のコインパーキングには、珍しく車が一台もなかった。
「…気張ってたんだよ」
「すみ、ません」
「謝らなくていいよ」
「わ、私、初めて大きいこと一人で任されて、先輩もいなくて、たくさん助けられてたんだって、わ、わかって、」
大通りを走る車の音は絶えず続いているのに、公衆電話ボックスの裏に一歩入っただけで、世界の輪郭が急にぼやけた。
片倉は莉子が話すのに合わせて、ゆっくりと、うん、うんと相槌を打った。
「こわ、くて」
そう、私は、ずっと怖かった。
でもそれを、誰にも知られたくなくて、言いたくなくて。
それを口にしたら、不安で覆われて、片倉に助けを求めてしまいたくなりそうで、
「…できるって思ってたよ、俺は」
「え…」
「大丈夫だろうなって最初っから思ってた」
二月の夜。
空気は冷たく、吐く息が白く滲む。
ネイビーのマフラーをきちんと巻いた片倉は、黒のロングコートの襟を少し立てたまま、莉子の前に立つ。
「う、嬉しいです」
「俺が育てたからな」
「…せんぱ、」
「南なら大丈夫だと思ってた。俺が何か言うことで、南の思考とか感性に影響与えたくなくて、何も言わなかった」
片倉の眼鏡の奥の視線は穏やかで、センター分けの柔らかな癖毛が、街灯の光を淡く反射していた。
莉子の、胸下まであるオリーブグレージュのパーマが、泣きながら揺れるたびにふわりと広がる。
車のヘッドライトが一瞬、植え込みの隙間をかすめて、またすぐに通り過ぎていく。
「もどかしかったよ、俺だって」
「せんぱい、」
莉子の嗚咽は、マフラーの奥で小さく折りたたまれて、街の音に溶けていく。
「…泣かないで」
大通りから吹き込む風が一瞬、二人の間を抜けていく。冬の夜の空気は鋭くて、泣いた頬に当たると、余計に冷たい。
片倉が距離を詰めた。
次の瞬間、腕を軽く引かれて、背中が電話ボックスのガラスに近づく。
ネイビーのマフラーが揺れて、黒のロングコートの肩が、街灯の光を鈍く反射した。
ガラス越しに、街の光が滲んで見えた。
抱きしめられている。そう気づくのに、少し時間がかかった。
片倉の片腕が、莉子の後頭部に回る。
目の前いっぱいに広がるのは、片倉のコートの黒と、その内側の少しだけ明るいシャツの色。
「南は、俺が大事に育ててきたんだ」
指先が、パーマのかかった髪を壊さないように、ゆっくりと撫でた。
二月の夜風の冷たさと、コート越しに伝わる体温の差が、莉子の感覚を追いつかせない。
「……せんぱ、ダメですよ」
莉子の声は震えてマフラーの中で吸い込まれる。
車のヘッドライトが遠くを流れて、植え込みの影が一瞬、明るくなって、またすぐに夜に沈む。
「…セクハラになるかな?」
腕の力が、少し緩んだ。
「ちが、…彼女、いるじゃないですか」
「…そうだね」
言葉と一緒に、吐く息が白く混ざる。
「っ、はい、だから、後輩とこんなにくっついちゃ、ダメです」
莉子が一歩、下がる。片倉も、それを拒否しない。
電話ボックスとの距離が空いて、夜の冷気が、そこにすっと入り込んだ。
片倉は腕を下ろした。街灯の光が、眼鏡の縁に一瞬だけ反射する。
「…お疲れ様でした」
きっとまだ涙が残っている。
ぼやける視界の中で、街灯がきらりと反射して歪む。
莉子は片倉を残して、一歩外に出ると、大通りの光と音が、一気に流れ込んできた。
莉子の白いマフラーが髪と共に揺れた。