ひとつの秩序



 
 
 
今日の仕事は、驚くほど普通だった。
会議もなく、修正もなく、昨日までの張り詰めた感じが嘘みたいに、淡々と終わっていった。

昼休憩は久しぶりに外に出た。

近くのキッチンカーまで買いに行くことにし、大通りを歩いていると、昨日の電話ボックスがあった。
昨日とは違って、裏のコインパーキングは車で埋まっていて、それを示す赤いランプが点灯している。

デスクを離れる際に片倉を見た時、ちらりと目が合った。一秒ほど、目が合ってお互い何気なく目を逸らした。気まずさからではない。

お互い何となく、わざと目を合わせて、何となく、わざと逸らした気がした。

今日の片倉は、今までとあまり変わらないまま。けれど少しだけいつもより目線が合うし、少しだけ、じっと見られている気がした。


「…何だったんだろ」

涙が出た自分にも驚いた。
目の前のことに精一杯で、自分の感情を自覚する暇もなかった。
片倉に、わかるよと言ってもらえた瞬間、不安だった全ての気持ちの波が押し寄せてきて、溢れていった。

そうして、抱きしめられた。
片倉と距離が近くなるのは、先輩と後輩じゃなくなるのは、これで三度目か、四度目か。

「ダメですよ」と言えば、引く。
「彼女がいるんでしょ」と言えば、頷く。

彼女と上手くいっていないから後輩に手を出すような人ではない。じゃあ、何?いつもその問いにぶつかっては、考えないようにしよう、もう忘れてしまおう。その結論に至る。


「…でも昨日は、私も泣いちゃったしなぁ」

急に泣いた私も、ずるい。
先輩後輩じゃない姿を見せたのは、私も同じなのだから。











キッチンカーで買った弁当を、会社のデスクで広げる。

蓋を開けた瞬間に立ちのぼった匂いは思っていたより控えめで、もうぬるくなっていた。

噛んで、飲み込んで、次の一口を考えるだけの時間。そのとき、机の端に置いていたスマホが、短く震えた。

画面に浮かんだ名前を見て、莉子は一瞬だけ、手を止める。加瀬からだ。


【次、いつ会える?】

何、その、用事がなくても会う前提みたいな。

どう返信しようか迷っていると、メッセージが追加で送られて来る。

【前行ってた、買い物行こ。南が好きな感じの服選んで】

前なら何も意識しなかった言葉たちなのに。
加瀬の調子はいつも通りに感じるのに、言葉を深読みしてしまうのは、私だけ?

買い物の誘いをした時は、本当に何も考えてなくて、ただいつも良くしてくれる加瀬にお礼のランチでも奢ろうかな、ついでに自分の服も見たいな。そんな気持ちでした提案だったのだが、今の私はそんな軽く考えられない。

心なしか頬が熱いのは、きっと暖房のせいだ。








「お疲れ様でした」
「おつかれさま」

終業後、定時であがろうとデスク全体に声をかけると、片倉からも返ってきた。その声を背に、オフィスを後にする。

昨日ほどは近くない。
でも、完全に遠くなったわけでもない。

そんなことを考えている間に駅に着き、莉子は帰路に着いた。今日が無事に終わって、もうそれだけで良かった。
















気にしてないみたいで良かった。

片倉は、定時で帰る莉子の背中を見送って、息を吐いた。

あの時、思わず抱き寄せた自分に驚いた。
南を励ましたかったはずなのに、そのことより、その時の自分の感情が湧き立ってしまって、気づいたらそうしていた。

感情が制御できなくなったのは、あの時もだ。

ー『っ同棲、しない?』


俺は、何を、考えているんだ。



考えないようにしようと思ってもそう思えば思うほど、それから逃れられない。
今日の昼間に見た光景も、思い出したくないのに頭の中に思い浮かぶ。



ーー昼休みのフロアは、いつもより静かだった。
外に出ている人が多く、残っているのは、それぞれのデスクで簡単に済ませる数人だけ。

片倉はコーヒーマシーンで入れたコーヒーを片手に、通路を抜けて自分の席へ戻ろうとしていた。その途中で視界の端に、シェアスペースで弁当を食べる莉子が目に入る。

キッチンカーの紙容器。蓋を折り返して、中身を半分ほど残したまま置かれている弁当。

箸は、いまは動いていない。

莉子はスマホを手に取って、画面を見下ろしていた。眉を顰めたと思うとほんの一瞬、口元が緩んですぐに戻る。

指先が、慣れた動きで画面をなぞる。
ああ、誰かとメッセージをしているんだろう。


表情を、緩める、誰かと?

片倉は歩く速度を変えない。足を止めない。立ち止まらない。ただ、その一瞬だけ、視線が留まった。

昼の光が、デスクの上に広がっている。
コーヒーを一口、喉に流し込んだ。喉の乾いた音が、自分の身体に小さく響いた。


片倉は視線を外して、自分の席へ戻る。

見なかったことにするほど、鈍くもない。
でも、踏み込む理由も、もう、ない。ーーー






フリーアドレスのはずのデスクは、もうとっくに形骸化している。決まった位置、決まった引き出し、決まった机。

片倉は周囲を一度だけ見回してから、無言でファイリングされた莉子のデスクを見た。

整えられたクリアファイルの束。
背表紙は揃っていて、中身が透けないように色も順番もきちんと決められていて、几帳面だな。と今さらみたいなことを思う。

一冊、手に取る。
重くも軽くもない、仕事用の、ただのファイル。

指をかけて開くと、紙が擦れる音が思ったより大きく響いた。

途中のページに、付箋が貼られているのが見えた。黄色でも、ピンクでもない。くすんだ水色の、小さな付箋。

気になって、そこだけをめくった。

印刷された資料の端に、走り書きみたいな文字が並んでいた。

【言語化:「間」】

走り書きの下に、一行だけ、別の文字。

【いつか追いつく】

片倉の喉が、わずかに鳴る。
そのページは、自分が最初に賞を取った時の案件資料だった。

若くて、勢いだけで、必死で、評価されたことより怖さの方が大きかった、あの頃。


なんで、この資料を持っているんだ。
なんで、付箋を貼っている。

なんで、今、このタイミングで。


片倉は、しばらくそのページを見つめていた。

莉子が、自分の背中を見ていたこと。
自分のやり方を、無意識に拾っていたこと。

そっくりそのまま教えたつもりもなく、真似させた覚えもないのに、それでも、ちゃんと辿り着いていたこと。


ファイルを閉じる。
指先が、わずかに強く、表紙を押した。

くしゃり、と無意識に髪をかき上げた。


「……何やってんだか」


誰に向けた言葉でもなく、自分に落とすみたいに、低く呟く。

片倉はファイルを元の位置に戻した。

近づきすぎて、どうして良いかわからなくなって、離れて、いつも通りを期待して、いつも通りなことに落胆しているような気もする。

まだ何かをしていい立場じゃないと思いつつも、触りたくなる。もう、花にただ上から水をやっていればいいとは思えない。

言語化は得意なはずなのに、今はそれが出来ない。
ああ、なんだか指輪の跡が痛い。

キーボードを打つ音が、あちこちから重なって聞こえる。誰かの椅子が軋む音がして、すぐに元の静けさに戻った。


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