ひとつの秩序
「お疲れ様でした!」
そう言ってグラスを合わせる仕草をした。
二月の下旬、平日の夜。大きな案件が一区切りついた直後で、クライアントとの会食だった。こういうことはよくあるが、莉子は参加する深さが案件ごとに違うので、参加したりしなかったりだ。
大通りから一本入ったところにある静かな和食ビストロで、落ち着いた内装の店だった。先方がセッティングしてくれたところだが、オシャレでセンスの良さが伝わってきた。
莉子の会社からは片倉、莉子、営業が二名ほど。クライアント側からも担当者数名で、小規模な労いのお疲れ様会というものだった。
「今回、本当に助かりました。正直最初は若い方に振りすぎないかなって不安もあったんですけど」
「そう言って頂けてよかったです」
「でも結果的に、変えすぎてないのが一番良かったですね」
「そこは、南がかなり考えてくれました」
端に座っている片倉が、莉子を手の平で指して名前を上げてくれた。
それが純粋に嬉しく、ありがとうございますと小さな声で返事をした。
そうしてお酒が進んで、それぞれがそこまで気を遣わずに各自で話し始めた頃、L字のテーブルで、莉子の隣に座っていた取引先の男性と話が進む。
莉子より四、五歳は年上だろうか。清潔感があって、落ち着いている、クライアントの企画担当の男性だった。
理解力が高く、この男性が入ると話が進むのが早い、という印象を持っていた。
「南さんって、こういう案件多いんですか?」
「たまにって感じですけど、今回そちらの業種が初めてだったので、必死でした」
「初めてですか?それであのまとめ方はすごいですね」
「勉強しました」
「勉強で済む感じじゃなかったですよ」
言葉の端に、評価と、少しの興味が混じる。仕事としては、正しい反応だ。だから莉子も、笑って受け取る。
「こういう仕事って、感覚の部分も多いじゃないですか。南さん、センスいいですよね」
「ありがとうございます、嬉しいです」
「うちの中でも評判良くて」
「えー、ほんとですか」
「またご一緒できたらいいなと思ってます」
料理が運ばれてくるたびに、会話は途切れて、また再開される。
その合間、男性は何度か莉子の方を見ていた。視線が合うと、すぐに逸らすわけでもなく、軽く笑ってグラスに口をつける。
「普段、お休みの日って何されてるんですか?」
「あー、カフェ行ったり、美術館行ったりするのが好きですね」
「美術館、さすがデザイナーさんですね」
「いえいえ、全然です」
「じゃあ、南さんおすすめのところ今度連れて行ってもらおうかなぁ」
一瞬、間。
莉子が返答に迷っていると、反対側から別の会話が被さる。誰かが笑い、誰かが冗談を言う。テーブルの上の空気は和やかで、誰も何かを疑っていない。
その中で、隣の距離だけが、少し近い。
「……はは」
莉子は曖昧に頷いた。否定も、肯定もしない。
グラスの水滴が、テーブルに小さな輪を作っている。それをぼんやり眺めながら、――ああ、これだな。と、心のどこかで思う。
今までも、何度かあった。こうやって、仕事の延長線上で、少しずつ距離がずれていく感じ。今までの恋愛も、お互いが薄っすらわかっている状態で、何となく、始まっていくことが多かった。
こういうのは、楽ではある。
想定の中で動いて、その範囲内のことしか起こらなくて、妥当だなと思うところで、お互いが少しずつ、手の内を見せていく。
そのうち、半数のグラスが空になり、誰かが「そろそろ締めますか」と言い出す。その流れの中で、隣の男性が、小さな声で言った。
「よかったら、連絡先だけ」
断る理由は、特にない。
仕事上、交換してもおかしくはない。むしろ、ここで断る方がおかしい。
何かを、言われたわけでもない。
莉子はニコリと笑って、スマホを取り出し、画面を見せた。
男性も同じようにして、メッセージ欄に確認のスタンプが送られてきた。画面の一覧に、まだ既読をつけていない、加瀬のメッセージがチラリと見えて、すぐに画面を閉じた。
店内の照明は変わらず柔らかく、グラスの音と、低い話し声が、ゆっくりと溶け合っていた。お疲れ様でしたと、店の前で挨拶をして、それぞれが少しだけ固まって駅までの道のりを歩いていく。
最後まで会計などの手配をしていた片倉の隣で、莉子は前に歩いていく先ほどの男性を目で追いながら歩く。コートの裾が揺れて、交差点の光に一瞬だけ照らされる。
「…口説かれてたね」
「えっ、見てたんですか」
「前から、桜井さんは南のこと気に入ってるんだろうなって思ってたけど」
「えっ!」
「クライアントの人たちは気づいてないと思うけどね」
大通りの車の流れは絶えず、信号待ちの間だけ、足元に静けさが落ちる。
街路樹の影が、歩道にまだらに落ちている。
冬の葉はまばらで、街灯の光が素通りしてくる。足音が、昼間よりもはっきり響く。
「連絡先、交換したの?」
「…いちおう」
「そっか」
駅が近づくにつれて、人の数が少しずつ増えていく。飲み会帰りの笑い声、電話口で小さく話す声。
前を歩く男性ーー桜井さんが、改札の明かりの手前で、ふと振り返る。目が合って、軽く会釈をされた。莉子も反射的に頭を下げる。
それで終わりだ。言葉はない。
背中が、改札の人波に紛れていくのを見送る。
「あれ?先輩こっちの駅ですか?」
「あーうん、ちょっとね」
最近はこっち方面に用事があるのかな。バス通勤を辞めたのかな。
そう思うも、片倉の返事を聞いて触れられたくないのかと思い、莉子はそれ以上何も聞かなかった。
改札の明かりが、二人の影を床に落とす。並んで立っているのに、どこか距離がある。そのまま、何気ない挨拶だけをして片倉と別れた。
どの線に乗るのかまでは、敢えて追わなかった。
それぞれのホームに分かれる気配だけが、背中に残った。