ひとつの秩序
 
 
 
出張行ってくるわ。

短い言葉だけが、移動中の莉子のスマホに送られてきた。
気をつけてねという言葉と、加瀬の出張先の銘菓の写真とともに返信をする。
おい、とすぐに返ってきた短文に、莉子は思わず笑みが溢れ、そのままスマホをコートのポケットに仕舞って外の景色に目をやった。

莉子は、片倉と一緒にクライアントの会社に向かっているところだった。
クライアントの会社に保管している大量のサンプルを実際に手に取って見るということで、二人でモノレールに乗って移動していた。

今日は打ち合わせの後、そのまま直帰だ。
少し長引きそうな気がするけれど、あまり普段は来ない駅だから、少しだけワクワクしたような気持ちになる。

「南、降りるよ」
「はい」

片倉とモノレールを降りて、二人で並んでクライアント先に向かった。














「思ったより種類があったね」
「そうですね、どう差別化するかですよねー」

クライアントの会社から出ると、すっかりあたりは暗くなっていた。

昼間は人で埋まっていたはずの通りから外れると、足音が急に響きはじめる。
夜の空気は水を含んでいて、吐く息が白く滲むほど冷たい。

建物は低く、無機質で、ガラスよりもコンクリートの面積が多い。ところどころに並ぶ倉庫の壁が、街灯の光を鈍く反射していた。

「あ、そういえば、この間行ってた展覧会、もう行った?」
「行きたいなーとは…思ってるんですが」
「何その間。どうした?」
「こないだの…桜井さんから…」
「ああ、飲み会の。誘われた?」
「はい…行きたいなーと思っていただけに…どうしようかなと…」

人影はほとんどない。
たまに遠くで車のエンジン音が響いても、すぐに闇に吸い込まれていく。
駅までは、思ったよりも距離がある。頬を撫でていく風が、いつにも増して冷たい。

「南の好み、知られてるねぇ」
「うーん…話したのかなぁ」
「南は、隙があるからなぁ」
「えっそんなことないですよ」
「あるんだよなー」

今はとても、その人と何かを進めていく気にはならない。
その誘いに乗るのは、とても楽で、きっと考えなくていいんだろうけれど、今の私はもう手一杯だし、何より、心が動かない。

「どうしようかな…」
「違う人と行く気はないの?他の人と約束しててって言えばいいんじゃない?」
「あ、そうか」

そう言えば、加瀬とはこういうの行ったことないけど、誘ったら来てくれるのかなー、あんまり興味はなさそうだけど、美術館とかも行きたいところあるんだよなー、でも誘ったら何でも着いてきてくれそうではあるなー。そんなことを思いながら、駅に向かって歩く。道はあんまり覚えていないが、隣の片倉がきっと覚えているだろうと思っていた。

「一緒に行く?」
「友達、誘ってみます」
「…そっか」
「はい、先輩は彼女さんと行ったりしますか?」

一瞬、風が吹いて、そのまま海の方に流されて行った。
そうか、海が近いから、風も強いのか。

「みなみ、」

分厚いコートが、目の前に広がった。
何も、聞こえなくなる。
遠くで、レールの上を走る音がした。

抱きしめられている、一歩遅れて気づいた。
背中に回った手に、力が入っているのが伝わってくる。

「せ、んぱい、こういうことしたら、だめって、言ったじゃないですか」
「…うん」

押し返そうとしても、今回は戻らなかった。


「かのじょ、さんと、仲良くしてくださいっ」

誰も通らない。
来る時はあんなに人がいたのに。

片倉の匂いがする。
柔らかくて優しくて、少しだけ柑橘と石鹸が混ざったみたいな、ハンドソープみたいな、香り。

「…南、好きな人いるの?」
「なん、ですかっ、いませんっ!」

離れることしか考えられない。
だって、私と先輩は、こんなに近くなっては、いけない。

何か分からないことを考えて、心をいっぱいにするのはもう充分だ。
これまで、散々、私を乱してはその度に離れて、忘れて欲しいみたいな顔をしていたくせに、なんで今更こういうこと、するんですか。


「南、好きな人、つくんないで」


遠くにモノレールの線路が見える。
照らされた無数の窓たちが流れて、消えて、また黒に戻っていった。

「っだから、いないですって、せんぱい、だめです」
「いや?」
「だめですって」

胸の位置が合わない。重なっているはずなのに、どこか噛み合っていなくて、コートとコートの間に空気が残って、その隙間を、夜風が無理やり押し込んでくる。

「嫌か、嫌じゃないかで教えてよ」

ネイビーのマフラーの端が、莉子の頬を掠めていく、
ウールの繊維が、肌にざらりと当たって、肌に不快な熱を残した。
運河から吹き抜けてくる湿った風が、首筋を這い、莉子の髪の毛を絡みとっていく。

「なっんで、そんな、」
「嫌じゃ、ない?」

倉庫の角を回り込んだ風が、二人の足元を抜けて、アスファルトの砂をさらっていく。莉子が少しだけ動く度、じゃり、と地面が擦れて、それが静寂に不吉なほど鮮明に響く。

街灯が一瞬だけちらついて、影が揺れた。


一瞬、自分が今どこに立っているのか分からなくなるような感覚。
くらりと入り込む、片倉の香りが、存在が、柔らかく沈むような声が、莉子の全ての感覚を刺激して、撫でるように去っていく。


「〜〜っだめですって!」

強く、片倉の胸を押した。
背中に回っていた腕の力はいつの間にか弱まっていて、思ったよりも呆気なく離れた。
自分の熱い息がマフラーに移って、発生した水蒸気たちが莉子の周りを纏う。自分の息が白いのが分かるほど、寒いのか、それとも自分が熱いのか、


「…嫌か、嫌じゃないかで答えてって、言ったのに」

片倉の表情は歪んだように、それでも少しだけ口元は笑っていた。
冷たい風が、水の匂いを届けてはまた去っていく。

「し、失礼しまふ!!」

最悪だ、噛んだ、でももうそんなことはどうだっていい。
とにかく、遠く、視界に、入らないところに、

家に、帰ろう、次のモノレールは、何分だ。

 
 
 
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