ひとつの秩序
確実に、壊れた。
「……意外と眠れた」
莉子はむくりとベッドから起き上がって時計を見た。
無意識で呟いた言葉が掠れて消えた。
あのあと、別に追われているわけでもないのにとても急いた気持ちで家に帰り、すぐに風呂に入って寝た。考えたら、どうにかなってしまいそうだったから。
【おはよ】
スマホに届いていた三文字の言葉。加瀬からのメッセージに既読だけつけるも、何となく返信できなかった。そのままベッドにスマホを置き去りにして、朝の支度を始める。カーテンの隙間から、冬の朝の白い光が差し込んでいた。
加瀬には、言えない。とても、こんなこと、言えない。
動揺してる自分も、知られたくない。
本当なら加瀬と出かけている予定だった日。何も考えていなかったが、家に一人でいたくなくて、とりあえず外へ出た。電車に乗って、とりあえず大きな駅で降りて、前から行きたいと思っていたブックカフェで一冊、建築デザインの本を手に取って、ソファ席に座った。
「カフェラテ……やっぱりこのチョコレートホイップモカで」
パラパラとページをめくるも、何もときめかない。どこにも、触れない。
諦めてその本を棚に戻し、小説を手に取った。物語に没入してしまえば、考えなくて済むだろう。
席に戻ると、ドリンクが届いていた。
上にこんもりと盛られたホイップをドリンクに溶かしながら飲む。
甘い、甘い、でも、これくらい、どろりと喉に張り付いて、ゆっくり落ちていってくれていい。
一冊読んだところで、待ち列ができているのを見つけて外に出ることにした。雑貨屋、ギャラリー、気になっていたところにとにかく歩いて、進んで、場所を変えて、何か、他に思考を移したくて。
街は土曜日らしく、人の歩く速度が平日より少しだけ遅い。
昨日より、寒くない。海が、近くないからだろうか。
本屋では、誰かが隣に立つ距離がやけに近くて、雑貨屋では、ペアのマグカップが目に入る。ギャラリーの白い壁にかかった作品より、一緒に見ている二人組の後ろ姿の方が、なぜか印象に残る。
一緒に、来ていたら、楽しかっただろうか。
……だれ、と?
無理やり、脳みその中に、思考を捩じ込まれているみたいだ。
どういうつもりかなんて、私には分かるわけない。
考えたって仕方ないと思っているのに、そこの理由を詰めて知りたくなってしまうのは、どうしてか。
やることがなくなって、夕方には家に戻った。
お腹が空いたなと思ってコンビニに寄る。
冬にアイスを食べるのが好きなはずなのに、今日はアイスの棚には目が何となく向けられない。あの時食べたいと思ったアイスは、まだ加瀬の家の冷凍庫に眠ったままだ。
『今日、何してた?』
『えと、ブックカフェ行ったり、雑貨屋行ったり…』
『何読んだの?』
『何だっけ、あー、あの、映画化してたやつ』
十八時ごろ、加瀬から電話がかかってきた。たわいのない話をしていても、今日一日をふわふわと過ごしてきたせいで、何となく身に入らない。何も嘘はついていない。何考えてた?と聞かれない限り、今日のことは誰も知らないままだ。
テレビの横に飾ってある、加瀬がくれたキャンドルに目が向いた。
何となく火をつけたくはなくて、そのまま置物のように置かれている。
パッケージは捨てたくなくて、小さな額縁に入れて、後ろに飾ってある。
その日は早めにお風呂に入ることにし、長風呂をしようと、頂き物のバスソルトを解禁して、ほんのりラベンダーの色に染まった湯船に足を入れた。
ちゃぽん、と湯が揺れて、その振動が淵に当たるまで延々と続いていく。
莉子は耳の下ギリギリまで湯船に浸かった。
コート越しに感じた圧は強くて、
触れた手の位置とか、少しだけ、掠れて絞り出したみたいな声とか、
ああ、何で、忘れたいところだけがどうしてこう、鮮明なんだ。
待って、もう、どうしよう、どうしよう、何したって考えちゃうんだもん、
何で、どうやって、月曜日、会社に行ったら、
「あああああああああ…」
言葉が無意識に漏れ出てくる。
莉子は持ち込んでいたスマホを操作し、静にメッセージを打った。
【お疲れ様です、静さんって月曜日、ポップアップの確認に行くって言ってましたよね?】
【言ったよー、行くよー】
すぐに既読がついて返ってきたその言葉に、縋り付くように莉子は続けて文面を打った。
【私も、行ってきて確認していいですか?近くで見たくて!ついでに、こないだ言ってた案件も確認してきます!】
【いいよー、よろしくね!】
【承知しました、急にすみません!】
とりあえず、月曜の朝イチでの接触は避けられた。
少しだけ心の重荷が解けて、湯船に再度肩まで浸かろうとすると、追加で送られてきたメッセージに莉子はスマホを落としそうになる。
【片倉となんかあったんでしょ、教えてねーん!】
何で分かるのこの人、何がどうなって察することができるんだ、すごすぎる。
お風呂から出ると、加瀬から電話がまた来ていた。
さっき話したのに、どうしたんだろうと思いつつ掛け直す。
『ごめん、欲しいって言ってたお土産、限定の方か通常の方か聞こうと思って忘れてた』
『あーいいのに、ありがとう、できれば通常の方!』
『了解、明日も駅行くから見とくわ』
『うん、全然、できたらで大丈夫』
しばらく黙ってから、加瀬は莉子に短く問いかけた。
『元気ない?』
『…そんなこと、ないよ』
『帰ったら、デートする?』
軽くて、冗談みたいな声。声しか聞けないことが、何となくもどかしい気持ちになる。
『…まずアイス食べる』
『デートは?』
『来週にリスケって、話してたじゃん』
『デート、否定しないんだ』
言葉に詰まる。
濡れたままの髪の毛が、頬にぺたりと張り付く。
自分でも、もう何を守ろうとして、どうしようとしてたのかわからない。
『……デートじゃないもん…』
自分の声が、とても情けない。
加瀬がそれを聞いて、スマホの奥で笑った。