ひとつの秩序
第三章
昨日は一日、静と一緒に仕事をして出社はしなかった。
火曜日、意気込んで出社したが、片倉はいなかった。そういえば打ち合わせなどで、一日外出とカレンダーに書いてあった気がする。
水曜日、片倉は休みだった。
前から申請されていた有給で、それも莉子は把握していた。
そして今日、木曜日。もう、何もなかった顔はできない。
ここまで偶然、顔を合わせることはなかったが、同じフロア、隣の席、いくつも一緒にやっている仕事がまだまだ、これからもある以上、いつかは向き合わなくてはいけない。明日には加瀬も帰ってくる。逃げる猶予は、もうない。
先週は金曜日だった打ち合わせ。
先方の都合で一日早められ、同じ時間にモノレールに乗っていた。
片倉は外を見ていて、莉子は足元を見ていた。朝顔を合わせてから、会話は一度もしていない。
今日一日、同じところにずっといたのに、何もお互いの心には残らず、感覚すら、共有されていない。先週は、加瀬とのメッセージのやり取りをしながら行きは乗って、帰りは、イヤホンに音楽をかけて、何も考えないようにして帰ったな。
降りる直前、片倉がポツリと言った。
「帰り、話せる?」
莉子は、一瞬息を止めてから、頷いた。
仕事は、驚くほど普通に進んだ。
打ち合わせも、確認も、雑談も、すべていつも通りで、どこにも破綻はない。
あんなことがあった後でも、普通に仕事はできて、普通に過ごしている。
大人の皮を被るのが、だいぶ上手になった。
帰り道、先週抱きしめられた場所より、少しだけ駅に近いところ。
何事もないような顔をして歩いていても、隣に片倉がいれば鮮明に蘇る、先週の、匂いと、熱さ。片倉も莉子も、先週と同じコートを着ていた。
「…今日、寒いね」
「そう、ですね」
こっち行こうか、と片倉は指差した。
先に歩き出した背中に着いて行き、静かなオフィスビルの一階の共有スペース。
広いガラスの壁面から、反射した街の光が淡く差し込んでいる。
ビルの内部は人がほとんどいない。
通り抜ける足音やエレベーターの開閉音だけが、ほんの少しだけ響いた。
「座って、話そうか」
共有スペースの角に置かれた、無骨な木のベンチを指差した。
そのまま駅に直結しているのに、あまりにも静かだ。
「こないだ、ごめんね」
「…いえ…」
「ちゃんと、話さなきゃなって思って」
「…はい」
三つ並んでいたベンチの一つに莉子が腰掛ける。
片倉は、莉子のすぐ隣ではなく、隣のベンチに座った。
人二人分くらいの距離が空く。
「…この辺は、夜になると本当に人がいないね」
「そう、ですね…」
「…俺さ、南のこと、何回も、戸惑わせたと思う」
「…」
「今日は、このまま近づかないから、話させてくれる?」
「はい…」
片倉がベンチに座ったまま、少し開いた自分の足元を見つめている。
莉子はそれを横目で見つめる。
「昨日、引っ越し終わったんだ」
「え?」
少しだけ沈黙が落ちる。遠くで、びゅう、と風の音がした。
「ちゃんと全部終わらせて、ケリつけるまで、ダメだって思ってたんだけど」
「…え?せんぱ…」
「なんか、衝動的に動いちゃうことが多くてごめん」
「どう、いう…」
周囲の天井は高く、白く整えられた壁面と濃いグレーの床には、夜の冷たい光がゆっくり落ちていく。
「別れた」
片倉の声は、そのまま足元にぽつりと落ちていくようだった。
そのままタイルに、音が吸収されてしまったのかと思うくらい、小さくて、諦観しているような、そんな言葉だった。
莉子は何も言えず、片倉の重力に従って前に落ちていく髪を見つめた。
「でも、もっと早く言えば良かったなって、思ってる」
「…」
「南、…俺のこと、どう思ってる?」
「っえ、」
ベンチに座った片倉は、肘を太ももに置いて、足元を見ている。
視線は、眼鏡の奥で伏せられたまま。
「…俺のこと、ずっと好きでいてよ」
「……今でも、好きですし、慕ってます」
「そういうのじゃなくて、」
片倉の長いロングコートが、地面に少しだけ着いている。
先週は、風に揺られてはためいて、莉子の足元にまとわりついてきていたのに。
「もう、俺のとこには、来てくれない?」
「……え」
時折、自動ドアが開く音がして、冷たい外気が一瞬だけ流れ込む。
自分じゃないみたいだ。
振り回したいわけでも、戸惑わせたいわけでもない。
元々、そんなつもりじゃなかった。
俺も、俺がわからない。
確かにあの時、俺は、望実に惹かれた。
それが嘘だったわけじゃない、でも、南が離れていくのが、猛烈に、
寂しくて、笑った顔が、もっと見たくて、
その身体を、自分の中に囲んでしまいたくて、
だから、もう、終わりにした。
「…今更なのは、分かってるよ…」
俺が育てた、小さな花。
「……南が好きだよ」