ひとつの秩序
 
 
 
休んでしまおうか、と一瞬だけ思った。
けれど結局、いつも通り身支度をして、いつも通り家を出た。
電車に揺られながら、昨日の会話を思い返そうとして、やめる。
考えても、どうせまとまらない。

オフィスに着くと、驚くほど普通に仕事ができた。
メールを返して、資料を開いて、ソフトを開いて、編集して、自分でも拍子抜けするくらい、スムーズに進んでいった。


-あれ?

胸の奥で、ふと何かがざわつくこともある。
でも、どういうことなんだろう。そう考えていた時よりも、今の方が、ずっと平常だった。



お昼は久しぶりに外に食べに行くことにした。
少し歩いたところに安くて美味しいタイ料理があると聞いて、たまには一人ランチもいいかと思ったのだ。

「…ここだ」

聞いた名前の看板が見つかり、中に入る。
店に入った瞬間、甘くて少し刺激のある香りが鼻をついた。
ナンプラーと香草が混ざった匂いで、昼時の店内はほぼ満席だった。
カタコトの店員に通され、席に向かうと、

「あ」
「…南」

案内されたのは二人用の小さなテーブル席。
窓側はソファ、反対側は椅子。

同じような席がいくつか並ぶ。莉子の隣の席の、椅子の方に、片倉が座っていた。
そういえば、莉子が出る少し前に、片倉も出て行っていた。

「偶然だね」
「佐伯さんに聞いて…」
「俺も佐伯さんに聞いた」

片倉は肩を竦めて笑った。
案内された片倉の隣の席。莉子はソファ側に腰を下ろした。向かい合うわけでもなく、横に並ぶほど近くもない。

店員がランチメニューと水を持ってきた。
パッタイが美味しいと聞いていた莉子は、メニューの中からパッタイのランチを指さして注文する。

「…俺もそれにした」
「美味しいって、言ってましたもんね」

社内では感じたことのない空気。でも昨日ほど、張り詰めてはいない。
きっと片倉も、ここに来る途中に思い出して、莉子の顔を見て、また思い出したに違いなかった。

「お待たせしましたー」

片倉の前にパッタイとミニサラダ、スープが置かれた。莉子もなんとなくその流れを目で追う。思ったよりボリューミーで美味しそうだ。

「…南、昨日は聞いてくれてありがとうね」

片倉が手を合わせながら、ぼそりと言った。
目線をなんとなくメニューに映していた莉子が、声に反応して片倉を見た。

「…いえ、」
「まだチャンスあると思っていい?」

片倉はサラダを食べながら、莉子が返事をする前に続けた。

「とりあえず、あの取引先の男に誘われてた展覧会、俺と行こ?」
「え、」
「友達はもう誘った?」
「まだ、です…」
「じゃあ、俺と行こ?」

莉子の前には、まだ水だけが置かれている。
グラスの中の氷が、溶けて小さく音を立てた。

「…は、い…」
「上司命令じゃないよ?嫌なら断ってね」
「嫌では…ないです…」
「うん、じゃあ来週の日曜とか、空いてる?」

莉子の視線はずっと片倉に注がれているにも関わらず、片倉はたまにこちらをチラリと見ては、また料理を食べ進めていく。その口調は仕事の話をしているかのように軽くて、いつも通りで、昨日のぽつりと言葉を落とすように話していた片鱗など、どこにもない。

「空いて、ます…」
「あの男は、断っておいてね」
「え?あ、はい…あの男って…」
「もう会わないんだし良いでしょ」

まるで資料の確認をしているみたいにサクサクと進められていく。
莉子の前に料理が運ばれてきて、湯気と香りが立ち昇る。
それでも、莉子の視線は片倉から動かせない。

「展覧会、未公開のもあるんだって」
「えっ」
「楽しみだね」
「えっは、はい」

片倉は口の端についたソースを指で拭って、おしぼりで拭いた。
そうして莉子を見て、ニコリと笑う。

「今日の髪型、アップにしてて可愛いね」
「ぅえ」

思わぬ角度からの言葉に、自分でも聞いたことのない声が漏れた。
背中から、女性二人組が笑っている甲高い声や、スプーンが皿に当たる乾いた音が聞こえてくる。

「じゃあ、先戻るね」

食べ終わった片倉が手を合わせ、立ち上がった。
莉子の料理は、まだ湯気が立っていた。

片倉がいなくなった後、莉子は呆然としたまま料理を食べ始めた。
なんの味もしない。
味覚がどこかに飛んでいってしまったみたいに、脳に入り込む隙間がない。

日曜、デート、誘われた?
先輩と?
ていうか、先輩って、あんなふうなの?
え???もう、ええ????

なんとかパッタイを喉に押し込み、会計をしようとレジの前に立つと、きょとんとした顔のタイ人らしき店員が莉子の隣の席を指差した。

「あのひとが払っていったよー」
「え、あ、はい…」

そのまま会社に戻ると、エレベーターですれ違った静に怪訝な顔をされる。

「あんた、それ、どういう顔?」
「…わかんないです」


デスクに戻り、先ほどまでとは違って強烈に片倉の存在を意識してしまう。午前の少し穏やかな気持ちは一体どこに行ってしまったんだろう。

パソコンに向かう前にスマホを取り出すと、ちょうど加瀬からメッセージが届いた。

【羽田着いた、戻ってきた】

いつもと何も変わらない調子に、少しだけ気持ちが落ち着いてそのまま返信をする。

【お疲れさま】
【明太子とモツ鍋セット買った】
【王道の観光客すぎておもしろい】
【俺ん家こない?こないだの続き】

そう返ってきたところで、指が止まる。
行って、良いのだろうか。こんな気持ちで。

【あ、やばい】

返信に困っていると、加瀬から追加でメッセージが来た。
吹き出しに続く文字をじっと見つめる。

【モツ鍋の素のセットだった】
【どういうこと?】
【モツは買わないといけないやつ】
【ねぇ 笑】
【〆のラーメンは付いてきてるのに、肝心のモツがない】
【おもしろすぎる】
【モツ買ってきてくれませんか】
【わかったよ、野菜は?冷蔵庫、空っぽじゃない?】
【そういえばそうだ。前のスーパー分かる?そこ集合で】

いいよ。そう返して気づく。
あれ、いつの間にか行くことになってる。

今日の私は、自分の意思を自覚する前になんだか流されて、その結果、来週の日曜は先輩と出かけることになっていて、今夜は加瀬の家に向かう。

そんな女じゃ、ないはずなのに。

それでも、どちらも嫌ではなくて、モヤがかかったみたいに自分の気持ちがよく分からなくて、ちゃんとしたいと思うのにモヤが濃すぎて進めない。

どうしよう。

今日何度目か分からないその言葉が脳裏に浮かんで、昼の間延びした空気に溶けていった。


 
 
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