ひとつの秩序


 
 
 
「出張、おつかれさま」
「ありがと」

金曜日の夕暮れのスーパーは混雑していた。
どうやら今日は野菜が安い日らしいと、道に立てかけてある幟を見て知る。

「モツ、ここに売ってなかったら終わるなと思って買ってきた」
「すげえ!どこで?」
「渋谷」
「え?渋谷ってモツ売ってんの?」
「売ってるよ、地下にスーパーあるじゃん」
「知らん、俺渋谷あんまり行かないし、モツ売ってるとは思わなかったわ」

確かに、渋谷が似合う男ではないなと思いながら、莉子と加瀬はスーパーに足を進める。
ここに来るのも、三度目か。売り場の配置が思い出せるようになった。

二人で野菜売り場を回って、白菜とニラと豆腐をかごに入れる。加瀬は慣れた手つきでカゴを押していて、莉子は後ろをついていくだけだった。

「一回家に帰ったの?」
「うん。冷蔵庫の中身、念のため見てきた」
「出張だから空にしていったのかなと思ったけど」
「そう、そういえば前日にカレーにぶち込んで全部食ってた」

脳筋すぎる、と笑っている莉子の声は軽くて、余計な間がない。
考えなくていい時間が、少しずつ戻ってくる。

加瀬の家に着くと、部屋は昼間のままで、カーテンも開いたままだった。
キッチンの電気をつけると、白い光が一気に広がる。

「俺やるから座ってていいよ」
「えっ、手伝うって」
「いいよここ狭いから、こたつでテレビでも見てろよ」

加瀬に肘で軽く追いやられ、莉子は渋々こたつに入った。温かくしてある。
テレビはつけず、ソファにもたれながら加瀬の背中を見つめる。
流し台に並ぶ野菜。
包丁の音と水の音が、静かに重なる。テレビはつけていないのに、部屋は静かすぎず、落ち着いている。

「モツがないことに早めに気づいた俺、すごくね?」
「いやモツ付きを選んでよ最初から」
「リカバリー力が高い方が評価されるんだよ」
「モツのミスは致命的すぎるでしょ」
「それは締めのラーメンがついてたことで許される範囲にあたる」

準備をする加瀬は、莉子に背中を向けたまま言葉を投げかけ、莉子もこたつに入ってソファにもたれながら、返事をする。
何も考えなくていいような会話が落ち着いて楽しい。

加瀬が野菜とモツを放り込んだだけの鍋が、こたつのローテーブルに置かれた。
カセットコンロの火をつけ、湯気が立つのを待つ。今日も加瀬は向かい側に座った。


テーブルに並んだ鍋と、小さな取り皿。
白い湯気が立ちのぼって、視界が少しだけ曖昧になる。

「どうだったの?出張」
「うん、まぁまぁ」
「出世なの?別にただの業務の一環?」

今まで出張とかなかったよね?と湯気を見ながら莉子は聞いた。

「あー、出世とかではないけど、任される範囲が広くなったって感じ」
「そうなってくるよね…段々」
「南は、まだあの先輩と組むことが多いの?」


目が泳ぐ。

別に、変なことを聞かれたわけじゃない。
ただの会話だ。

「まだまだ多いよ。私はメインの下だし」
「…ふーん」

莉子はいただきます、と手を合わせて鍋を覗き込んだ。加瀬も同じようにして、お玉で具材をよそって食べる。カセットコンロの青い炎が、鍋の底を舐めるように揺れている。

「美味しい!」
「…美味い?」

加瀬も一口食べ、息が抜けたように美味いと呟く。

「渋谷のモツは高いの?」
「わかんない、モツ買ったことないし相場知らない」

なんだ渋谷のモツって響き、と莉子は笑いながら返事をした。
加瀬は白米と一緒にかき込んでいる。

「…先輩とは、今何の仕事してんの」
「え?えーー、こないだ、天王洲アイルにある会社で…えー、展示系の会社と打ち合わせしたよ」

焦って直前のことを伝えたのが良くなかった。
場所を口にしたことで、あの時の抱きしめられた感触や熱、告白された言葉と、片倉の視線、あの時の風と、少し湿った空気が、一気に脳内に溢れ出してきてしまって、

加瀬といるときは、考えないように、してたのに。

「……へえ」

明らかに間がある返事に、莉子は加瀬の方を見ずに頷いた。
聞いてこないうちは、バレていないのと同じだ。そんな言い訳をしながら、莉子は目の前の鍋だけに意識を集中させた。





「こないだのアイス食う?」
「お腹いっぱいだけど…食べる」

食べ終わり、流しに鍋を移動させた加瀬が、冷凍庫から先日買って食べていなかったアイスを見せて莉子に聞いた。
そういえば、と思い出した莉子が返事をすると、まだカセットコンロが置かれたままのテーブルの上にアイスが置かれた。

「ありがとー」

目の前のアイスは、ピンク色で明らかにイチゴを前面に押し出したパッケージだ。写真に写っている断面には果肉がたくさん入っていそうで美味しそう、そんなことを思いながら、莉子は袋からアイスを取り出す。

「俺は今日はこのチョコのやつ」

加瀬はそう言いながら、二つくっついた、アイスの入った細長いプラスチックの塊を割りながら莉子の隣に座った。

「…え、近くないですか…」
「…俺んちだし、どこで食べてもいいかなーって」
「じゃあ、私があちらに行こうかしら」

莉子はお尻を少し浮かし、アイスを持っていない方の手を床につけた。

まるでそれを待っていたかのように、加瀬は、莉子が床についた手の上から、音もなく自分の手を重ねた。


「先輩と、何があった?」


直球で聞かれた言葉に、莉子の目が泳ぐ。
重ねられた手が、動くな、と言っているみたいだ。

先ほどと違って、加瀬の間にもう鍋はない。視線を向ける対象物もない。
加瀬の目線が、湯気でかき消されもしない。

「え、な何も」
「そんなさぁ、明らかに目が泳いで言葉詰まって言われてもなぁ」
「…」
「誤魔化すならもっと上手くやってよ」
「…ごめん…?」

換気扇の音が規則的にカラカラと聞こえてくる。
こってりとした匂いが部屋には満ちている。
けれどそれ以上に、隣から、柚子のような、爽やかで、ウッディーな匂いがする。

「で、口説かれた?好きって言われた?最大級の動揺だったけど」

加瀬は視線を外した。アイスを口だけで咥えて、片手は莉子の手の上に置いたままだ。
莉子の隣で同じように背もたれにもたれながら、咥えているプラスチックの容器をぷかぷかと動かす。
ため息混じりで言われた言葉は少し諦めが混ざっているような気がした。

「…そう、です」
「はー、好きって?」

ほとんど、自分の唇は動いていなかった。
小さく漏れ出たようなボリュームの言葉を、加瀬はしっかり拾い上げる。
ため息なのか、ただの言葉の前の音なのか、そのため息が、怖い。

「…うん」

加瀬にこれを伝えるのが怖かった。
どんな反応をするのか、想像は出来なかったけど、もし、これを話すことで、そうか分かった、と納得されてしまうのではないかと、

「はぁーー、で?全部教えて」

今度は分かりやすく大きいため息をつきながら加瀬はそう言った。
誤魔化せない。莉子は息を吸った。


 
 
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